安倍元総理の国葬「反対」 日本人の想いをゆがめるメディアの世論誘導|和田政宗 選挙運動中の人物を銃撃し殺害することが、「民主主義への挑戦」でなくて何であろうか。メディアの安倍元総理の国葬に対する攻撃は、「疑惑が払しょくされていない人物を国葬にして良いのか」などの論であるが、無理矢理その流れを一部メディアが作り出そうとしている――。

民主主義の根幹を揺るがす「朝日川柳」

安倍晋三元総理の国葬について、「朝日川柳」をはじめ一部メディアの攻撃がひどい。「国葬にすべきではない」との論を展開するのみならず、「安倍家は実は国葬に難色を示している」というとんでもない話を吹聴しているメディア(「FLASH」ネット版7月27日・光文社)があるが、憶測ではなくしっかり安倍家に取材してから記事を書くべきである。

メディアの安倍元総理の国葬に対する攻撃は、「疑惑が払しょくされていない人物を国葬にして良いのか」などの論であるが、無理矢理その流れを一部メディアが作り出そうとしている。

そうした中、国民の大きな怒りを買ったのが、7月15日、16日の「朝日川柳」である。選者により選ばれ、15日に掲載された句は、《銃声がすべて闇へと葬るか》《去る人の濁りは言わず口閉ざす》などであり、16日は《疑惑あった人が国葬そんな国》《利用され迷惑してる「民主主義」》《動機聞きゃテロじゃなかったらしいです》などの句が掲載された。

特に16日は、全7句が安倍元総理の国葬を揶揄するような句であった。これらの句の選者は「西木空人」というペンネームで、元朝日新聞記者で論説委員として「天声人語」などを担当した人物である。

この中でも特に、《動機聞きゃテロじゃなかったらしいです》との句の掲載は新聞社として大問題である。殺人を肯定するような内容であり、かつ、民主主義の根幹である選挙運動中に起きた殺害事件を揶揄している。つまり、朝日新聞は殺人や、民主主義や言論への暴力を肯定する新聞社であるということになる。

報道機関としてあってはならないことで、自らを恥じてジャーナリズムの旗や新聞社としての看板を下ろすべきであろう。私が朝日新聞の社長であったなら、民主主義の根幹を揺るがすものであると恥じ入り、辞任すると思う。それだけの大問題だ。

しかし朝日新聞は、大問題であるということを認識しながら、謝罪も処分も行っていない。同じジャーナリズムとして問題視した夕刊フジの質問状に対し、朝日新聞は、「15、16日付の川柳につきましては、多くのお問い合わせやご意見を頂戴しております。ご批判は重く、真摯に受け止めています」と回答した。

朝日新聞がこれだけ神妙に回答するのは極めて珍しいが、それ以上の行動はしておらず、やり過ごして逃げ切ろうという意図が見て取れる。

それは、国民の大批判を浴びた句が掲載された週以降の西木空人選の句で、安倍元総理の国葬やテロに関連するものは全く選ばれていないことからもわかる。これを裏返せば、15、16日は意図的に安倍元総理に関連する句を選んだことが分かる。多くの句の中から、これらの句を集中して選ぶことで世論を誘導しようとしたのである。

安倍元総理の国葬はなぜ必要なのか

こうした論に対し、国葬がなぜ必要であるかを改めて整理したい。

その大きな理由として、諸外国から弔問に訪れる要人へしっかりとした対応をすることが挙げられる。安倍元総理が亡くなった直後から、弔意を伝えるメッセージは259の国や地域、機関から1700件以上寄せられたことを外務省が明らかにした。また、各国首脳クラスが相次いで弔問のための訪日を希望するなど、国葬でなければしっかりと対応できない規模となっている。

安倍元総理が亡くなった翌日にインドが国全体で半旗を掲げ、喪に服したように、安倍元総理の功績は、日本よりむしろ海外のほうが評価されているという状況である。海外メディアの報道も、安倍元総理の功績に対して客観的かつ評価の高いものとなっている。

皆様もぜひネット等で確認して頂ければと思うし、安倍元総理を想い追悼する日本人の声がそのまま取り上げられている。これらを見れば、日本国民の多数が国葬を望んでいることが分かる。我が国における一部メディアの世論誘導は、真の日本人の想いをゆがめていると言える。

国葬差し止めの仮処分申請がとある団体によって行われたが、これも大々的に取り上げることであろうか。「市民団体」となっているが、この団体の代表は過去、反政権の団体を次々に立ち上げその代表となっており、国民の多くの声を代弁しているわけでは決してない。

こうした意見を持ち表明することは全く自由であるが、メディアは国民の声の一部を大げさに取り上げるのではなく、国民全体の声を正確に扱うべきである。

意味不明な池上彰氏の発言

特に、「AERA.dot」(7月29日)が掲載した池上彰氏のインタビューの内容は意味不明だ。

池上氏は、「安倍さんの国葬をめぐって賛否が分かれています。1967年の吉田茂元首相の国葬が行われたとき本人は政治家を引退していました。一方、首相を退いたとはいえ、自民党の最大派閥を率い、政権にも大きな影響力を与えていた安倍さんを国葬とすることに私は違和感をぬぐえません」と述べているが、吉田茂元総理は引退後も政権に大きな影響力を与えており、この事柄で吉田茂元総理と安倍元総理の比較はできない。

池上氏は歴史を知らないのだろうか。また、池上氏は国葬について、安倍元総理への歴史的評価が定まっていないと述べるとともに、安倍元総理への銃撃に対する「政治テロだ」「民主主義への挑戦だ」とのキャスターの発言は、誤りだと指摘している。

選挙運動中の人物を銃撃し殺害することが、「民主主義への挑戦」でなくて何であろうか。

理由はどうであれ、堂々と意見を訴えている政治家を銃撃し殺害することは、民主主義への挑戦である。だからこそ、世界各国で弔意が示されたわけであり、凶弾に斃れた元総理を国葬で送ることは、我が国の民主主義を断固守っていくことの意思表明なのである。

池上氏をはじめ、ジャーナリズムがジャーナリズムたり得ないことが日本の不幸である。皆様におかれては、ぜひこのような異様な状況をつぶさにご覧いただき、今後のメディアのあり方を問うていただければと思う。

私も一部メディアの世論誘導に対し、正確な情報を発信することで誘導を断固阻止していく。そして、しっかりと安倍元総理の国葬を行い、我が国はいかなるテロにも屈しないことを明らかにしていく。

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和田政宗

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