大阪大空襲77年 「まさに生き地獄」在日女性が児童らに体験話す

1945年6月7日の第3次大阪大空襲で母と3人のきょうだいを亡くした在日朝鮮人二世の鄭末鮮(チョン・マルソン)さん(89)=滋賀県野洲市=が、守山市立玉津公民館主催の「小学生自主活動学級」で玉津小6年生48人に空襲体験を語った。「忘れたいと思っていたが、忘れてはいけないと思うようになった。戦争はあかん、差別もあかんと伝えてほしい」と訴えた。(新聞うずみ火 矢野宏)

「昼間なのに黒い煙で真っ暗になり、何かにつまずいたと思って見たら死体。まさに生き地獄でした」。白いチマ・チョゴリ姿の鄭さんは静かに語りかけた。

来襲した409機のB29爆撃機は大阪市東部の都島区や旭区、東淀川区、豊中市や吹田市などにも1トン爆弾や焼夷弾を投下。B29の護衛のために飛来したP51戦闘機138機が地上で動くものを見境なく銃撃した。死者2759人、6682人が負傷した。

両親がなぜ、韓国南部の慶尚南道から日本に来たのか、詳しく聞いたことはない。鄭さんは日本で生まれ、現在のJR新大阪駅の近くで育った。

「学校でいじめられ、勉強した記憶がない」と振り返る鄭さん。「疎開先でもいじめられるのではないか」と両親が心配し、集団疎開もせず、学校にも通わなくなった。

空襲当日も家の前で遊んでいると、「突然、どかーんと地球がひっくり返るような爆発音がした」。あまりの恐怖に、鄭さんは周りの家から飛び出してきた大人たちの後について逃げた。

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再会した父から、1トン爆弾の直撃を受けて母と兄、妹と弟が死んだことを告げられる。

「当時、涙も出なかった。悲しい現実を受け入れられなかったからでしょう。口に出すこともなかった。いつか帰ってきてくれると思っていました」

戦後、差別と貧困のため、日本語の読み書きを学ぶ機会を奪われた鄭さん。70歳の時、中学教諭だった高野真知子さんから読み書きを習い、小中学生に空襲体験を語るようになったという。

鄭さんは朝鮮式の金属製の食器や箸、スプーンを並べ、母親の思い出を語った。母は朝鮮を離れる時に親からもらった金属製の器を大切に使っていたが、戦争激化とともに次々と供出させられたという。

「最後の器を出すとき、母は『もうこれで最後や。親からもらってきた物が何もかもなくなる』と言いながら涙を浮かべてたんです」

鄭さんは「家族の空襲体験を語れるのは私だけ。私の役目やと思っています。忘れたいと思っていましたが、忘れたらあかん。自分が体験したことを伝えねばと思うようになりました」と語った。

児童らは同じ年代で空襲を体験した鄭さんの話を真剣に聞き入り、「戦争の恐ろしさを教えてもらい、二度と戦争はしてはいけないと思った」「当たり前と思っていたことがいかに大切か知った」などの感想を寄せていた。

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