「戦地で撃たれたんだ」。そう語った祖父の左肩甲骨のあたりには、ほんの数センチのやけど痕にも似た傷があった。新潟市中央区の中村重樹さん(50)が子どもの頃、風呂で祖父の背中を流した時の記憶だ。祖父の言葉と傷は、幼い中村さんの心に残った。「戦争が起きたら、簡単に銃で撃たれてしまうんだと怖くなった」と振り返る。
祖父、利雄さん(1994年に76歳で死去)は2度の出征を経験した。しかし、戦争について多くを語らなかった。祖母で利雄さんの妻、キミさん(2015年に91歳で死去)の遺品を整理する中で、利雄さんの手記を見つけ、戦争の現実を知った。
利雄さんは1941年に船舶工兵隊として召集された。派遣先の中国湖南省の洞庭湖で航空燃料を輸送中、米軍機の銃撃を受けた。湖に飛び込んで逃げたが、ふくらはぎを貫通する傷を負った。米軍機は水面に浮いている仲間を狙い続け、半数が亡くなった。
手記にはこうつづられている。「都市でも田舎でも戦場となったところは悲惨の極みである。家は焼かれ、人は殺傷され、作物は荒らされる。戦闘ともなれば非戦闘員のことは頭にない。戦争が最悪だといわれる所以(ゆえん)である」
利雄さんは終戦で帰還してから1カ月ほど寝込んでいたと、キミさんから聞いたことがある。中村さんは「悲惨な戦争の記憶から、心の傷も負っていたのかもしれない」と想像する。
キミさんの遺品には手記の他、古い写真があった。キミさんは兄を戦争で亡くしていた。出征前に兄とともに撮った家族写真、葬儀の写真などが大切に保管されていた。
戦争に心や体を傷つけられ、その残酷さを痛いほど知っていた祖父母が遺(のこ)した品々から、戦争の愚かさを感じた中村さん。「戦争のことを伝えてほしいと思ったのかな」。遺品を大切にしようと思う。
(報道部・野上愛里)
◆[わたしもすずさん]西村信二さん(86)=新潟市中央区=
食べ物不足でも、楽しかった食卓
戦時下の暮らしで印象に残っているのは食べ物不足です。主食はサツマイモ。配給で家族の人数によって割り当てられました。イモに米粒が付いているのを、みんなで囲んで食べる夕食も楽しかった。
テレビやエアコンなどなく、夏の暑い夜は戸外で遅くまで涼をとっていました。窓は開けたまま蚊帳の中で就寝しました。
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