ビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」世界初のCDには誰ひとり賛同者なし?  品番:35DP-1、世界で初めてのメディアにまつわる現場のよもやま話

品番:35DP-1。世界初のCDはビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」

世界初のCDソフトは1982年10月1日に50タイトルが発売されましたが、35DP-1の品番をもつビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』が世界第一号商品としての栄誉をうけています。これをつくったCBSソニーの静岡工場はもちろん世界初のCDファクトリーでもあったし、ビリーの “世界初CD” を記念して、このディスクがアクリル漬けのモニュメントとなって工場の玄関に設置されています。

この時私はCBSソニー洋楽でディレクターとしてビリー・ジョエルやジャーニーなどを担当していました。ビリーの私の前任者が社内異動で、ニューメディア開発室へ移ったことを受け、私にビリー担当の大役が回ってきたのですが、この “ニューメディア” こそがCD発売準備室だったのです。こういう経緯もあり、私だけではないと思いますが、当時の仲間にとっても、CD=ビリー・ジョエル―― という図式が真っ先に出てくると思います。

そのCD開発時の、我々、洋楽制作の現場の反応なども合わせて当時のことを思い出してみました。

これからの時代はCDに変わっていく!…しかし、どこか他人事?

ご存じのように、ハードウェアとしてのCDは、フィリップスとSONYの共同開発でした。当時SONYの副社長だった大賀典雄さんはこの頃は、兼任でCBSソニーの会長でもあり、CDプロジェクトはハード&ソフト両方ともに彼のエネルギッシュな陣頭指揮のもとスタートしました。

SONYはCDプレイヤーの開発に挑み、ソフトウェアを担当するのはCBSソニーのニューメディア・チームです。もちろんディスクの製造に関しては静岡工場の技術スタッフが未知の領域に昼夜問わず挑戦していましたが、こちら市ヶ谷では製品デザインと初期ラインナップの編成作業が中心だったようです。

12センチのディスクを収めるトレイやジュエルケース、封入されるブックレット(解説書)など、制作工程期間、コスト計算や工場のライン効率などを総合的に考慮したうえでの、いわゆる商品パッケージのスペックづくりと言うことだったはずです。

洋邦合同で制作業務に就く我々も一堂に集められ、会社トップから「これからの時代はCDに変わっていく!」と熱く聴かされたものの、そこにいたほとんどの社員が他人事のようにとらえていたし、誰も近未来の気配すら気付いてなかったと思います。

音楽関係者も強烈な拒否…

恥ずかしながらですが、新しい時代の到来を感じることができなかった我々は、「いまのLPでどういう不都合があるのか」「これでいいじゃないか」と思っていましたし、そもそもこの新しいメディアのネーミングが “COMPACT DISC” と知った時は、昭和のアナログ世代の我々にしてみると、かつてあった4曲入りの7インチEP盤をコンパクト盤と呼んでいたこともあり、「なんだか新しいイメージがないな…」と結構冷ややかな印象をもっていました。

しかも、これもまた我々時代を読む力がない凡人ならではですが、発売されるCDの予定価格が3,800円と3,500円、同時にSONYが世に出すCDプレイヤーが16万円と高額だったことを受け、「こんな高い商品は金持ちの医者とか弁護士しか買わないのじゃないの」とか「これじゃ絶対流行らないよな」などと最初の頃は、極めてネガティブなスタンスでした。

これは後から知ったのですが、このCDの提案を、大賀会長自らが、世界中の音楽関係者が集まった国際会議の場で行った時、会場全体が冷ややかなムードになり、強烈な拒否に遭った―― と。我々だけじゃなかったのです。「長年に渡り大きな投資して世界のスタンダードにつくりあげてきたLP盤があるのに、何故危険な投資をしなければいけないのか」と極めて否定的で、これが世界のレコード会社の大勢だったとのこと。

実はCBSソニーにとって最重要なパートナーであるアメリアCBSですらこの姿勢でした。それでも将来のビジネスを見据えて、切り込んでいった大賀会長の慧眼には敬服するしかありません。

LP、カセットそしてCD… いまの仕事を日本でやってるのは自分だけ!

―― と、社内のハナシに戻ります。

現場のディレクター達は、誰ひとり、これからはこのメディアが主役になる、とは信じてなかったのですが、実は当時高音質を求める裕福なユーザー相手のアイテムとして、『マスターサウンドシリーズ』という価格も高額でやや分厚めのLP盤も発売されていました。このCDが世に出た時は、このシリーズにとって代わるもので、従来のアナログ盤を中心に共存していくものと思ったりもしました。

さて、このニューメディアの登場によって変化した我々現場ですが、旧譜カタログのCD再発売に関しては、このニューメディア開発室が編成制作業務を行っていましたが、我々が受け持っているフロントラインの新譜でも、ある程度のマ―ケットを持っているアーティストではCDを積極的に発売していく方針だったので、発売アイテムに従来のLP盤とカセットテープ(CA)に加え、もうひとつが追加されたのです。

私は特に大物系アーティストを担当していたので新譜ではほとんどCDも含めて3種類の商品を発売せざるをえなかったのですが、そうなると具体的には、それぞれのパッケージ毎に原稿をいれ、そしてそれぞれの文字校正と、極めて入稿校正作業が忙しくなったのです。CAはご存知の通り解説書などは小さく折りたたんでいるので、そもそも文字が小さく校正も大変でユーザーも読みづらいものがあったと思いますが、そこにプラスしてCDもあのサイズでした。ブックレットは36ページという仕様でしたので、ページ割りも考えつつの編集校正作業でした。

またCD購買促進のために “CDだけのボーナストラック” を付けることも増えてますし、そうなるとパッケージ毎に曲目リストが違ったりと、制作担当者の注意力もそれまで以上のものが要求されるようになりました。実際、片方の本業であるマーケティング戦略を考えたりプロモーションでメディアやジャーナリスト達と会う時間が減ってきたこともストレスになってましたが、商品制作は日本の中で自分だけしかやってない業務だと自分に言い聞かせつつ、モチベーションと集中力を高めていました。

メディアの主役はCDに。そしてストーンズのLPが出せなくなった…

世界初発売から2年後の1984年、業界的にはCD元年と呼べる年になりました。SONYはCDプレイヤーの価格を一気に下げ49,800円というD-50を発表。これに合わせてレコード部門としてもCD価格を3,200円に値下げしています。LPとの価格差が少し縮まりました。CD工場の生産体制も増強されており、主役はCDになりつつありましたが、洋楽では安価な輸入盤との競争もあり、依然LPとCDを同時に発売することが普通のことでした。

それから数年後の1989年、忘れられない出来事がありました。ザ・ローリング・ストーンズの新譜『スティール・ホイールズ』発売の折、私は編成制作の現場を預かる課長としては当然のようにCD、LP、CAの3パッケージの発売企画を編成会議に上程したのです。すると、あろうことか営業部のヘッドクォーターから「LPの発売は受け入れられない」―― と。

実はこの頃、CBSソニー営業部の大プロジェクトとして、旧譜カタログのCD再発にターボをいれ、店頭に入っているアナログ盤をCDに入れ替えるという大キャンペーンを展開していたのです。表現は過激ですが “世の中からアナログ盤をなくす” という動きでした。

… ということで、“会社をあげてお店からLPを引き上げている最中でもあり、いくらストーンズでもLPは出さないでほしい” と。まさかの拒否に私も驚きその場で論争になったのですが、営業部も一歩も引きません。

この場で自分の発した言葉はよく覚えています。「分かった。ストーンズでLPを発売しないと言うことは、うちの会社は今後、未来永劫LPを発売しないということだな!」とやや怒りを込めて言い放ったのです。このやりとりをもって、以降、洋楽の編成会議にLP盤が上程されることはなくなったのです。

人気再燃のアナログ盤。第一号商品はビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」

私のレコード会社人生でのCDに関する想い出は、世界第一号のビリー・ジョエルとノー・モア・アナログ盤宣言を喰らったローリング・ストーンズ、この二つに集約されます。

そして時が流れて、いままたアナログ盤が人気になっているということ。歴史は繰り返す―― 文字通りですね。

数年前に、SMEとして一度廃止したカッティングマシーンやアナログのプレス機を新規に入れ直し、またアナログ盤をつくり始めたこと、興味深くニュースを聴いてました。そして2018年3月に、あの編成会議からほぼ30年ぶりに再スタートしたアナログ盤の第一号商品が発売されました。

そのアルバムがビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』でした。

思わず笑ってしまいました。面白いですね。まさか今回は工場のモニュメントにはなってないはずです。

カタリベ: 喜久野俊和

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