郷ひろみという歌手は本気の役者? デビュー曲「男の子女の子」から50年!  10月18日は郷ひろみの誕生日

ジャニー喜多川のスカウトで始まる郷ひろみのキャリア

10月18日は郷ひろみの誕生日。とくに2022年は歌手生活50周年という特別な年。改めて彼の軌跡を振り返ってみたいと思う。

郷ひろみは高校一年の時(1971年)に、映画『潮騒』の出演者募集オーディションを受けたが落選。しかしその時に会ったジャニー喜多川氏にスカウトされ、フォーリーブスのバックでキャリアをスタートさせている。

当時のジャニーズ事務所は、芸能界のなかで現在ほど大きな力をもった存在ではなかった。ジャニーズ事務所が誕生したのは1962年。1964年にジャニーズ(真家ひろみ、あおい輝彦、飯野おさみ、中谷良。ジャニー喜多川が監督をしていた少年野球チーム “ジャニーズ” のメンバーで構成された)が「若い涙」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)でレコードデビューした。

ジャニーズは洗練されたポップ感覚をもった本格派エンターテインメントグループとしてアメリカ進出を目指し、後期には自分たちで演奏もするバンドスタイルも披露するなど多彩な才能を発揮していったが1967年に解散。

1968年には新たにフォーリーブスが(北公次、おりも政夫、江木俊夫、青山孝史)が「オリビアの調べ」(作詞:北公次、作曲:鈴木邦彦)でレコードデビューする。

ジャニーズには時代的にやや早すぎたイメージもあったが、フォーリーブスは男性アイドルブームの要素もあったGSブームにも乗る形で人気を集め、ナンバーワン男性アイドルとして脚光を浴びていった。

ジャニーズ事務所は、「グループ内にあらかじめ特別のスターをつくらない」という方針をもっていたため、ジャニーズもフォーリーブスにしてもメンバー全員がバランス良くヴォーカル、コーラス、ダンスをこなすグループアイドルのスタイルで稼働していった。そして、このスタイルはその後のジャニーズのグループにも原則として受け継がれていった。

フォーリーブスによってグループアイドルの手応えを得たことで、ジャニー喜多川は、今度はソロのアイドルを育てたいという強い意欲を持ったのではないか。それが郷ひろみのスカウト、そして抜擢になっていったのではないかとも思う。

デビュー曲は「男の子女の子」

郷ひろみは1972年8月に「男の子女の子」(作詞:岩谷時子、作曲:筒美京平)でレコードデビューする。

前年の1971年には、

花嫁 / はしだのりひことクライマックス
走れコウタロー / ソルティー・シュガー
あの素晴らしい愛をもう一度 / 加藤和彦と北山修

… など、この時代に対等してきたフォークの流れからもヒット曲が生まれていたし、

君をのせて / 沢田研二
さらば恋人 / 堺正章
昨日・今日・明日 / 井上順
雨のバラード / 湯原昌幸
また逢う日まで / 尾崎紀世彦

… など、GSからソロデビューした歌手も多かった。こうした傾向は郷ひろみがデビューした1972年にはさらにエスカレートしていた。

1972年は、新旧の音楽が入り乱れると同時にアイドルが注目された時代でもあった。もともとアイドル的人気があったGSからソロデビューした男性歌手もアイドルとして注目されたし、「17才」でデビューした南沙織、「水色の恋」でデビューした天地真理、「ひなげしの花」でデビューしたアグネス・チャンなど、女性アイドルも次々とデビューしていった。

郷ひろみだからそこ歌えた楽曲

こうした状況でデビューした郷ひろみには、男性ソロアイドルの中では異色の存在というイメージがあった。

他の男性アイドルたちがなんらかの形で “男らしさ” を打ち出していたのに対して。郷ひろみにはどこか “中性的” な匂いがあった。

もしかしたらジャニー喜多川は、郷ひろみにジャクソン5のマイケル・ジャクソンのような、未熟さのなかの圧倒的な輝きを見て、その部分をアピールしようとしたのかもしれない。

「男の子女の子」は、異性をリアルな “性” の対象としてではなく、漠然としたあこがれと捉えていた思春期前期の感覚にフィットする曲だった。

この微妙なニュアンスを作品化した岩谷時子と筒美京平の力量も見事なもので、その後8作目の「花とみつばち」(1974年)までのシングル曲をすべてこの二人が手掛けていったのも必然だと思える。

同時に、これは郷ひろみでなければ、その魅力を素直に聴き手に伝えることができないことを見抜いていたジャニー喜多川の慧眼もさすがだったとも思う。

野口五郎、西城秀樹と並んで称された“新御三家”

「男の子女の子」で順調なデビューを飾った郷ひろみは、10作目のシングル「よろしく哀愁」(1974年)で初のチャート1位を獲得する。そして、この頃からデビュー時のイノセントなキャラクターから、少しずつ男らしさをも見せていくようになる。

そして、「甘い生活」(1974年)をヒットさせた野口五郎、「ちぎれた愛」(1973年)でブレイクした西城秀樹とともに新御三家と呼ばれるようになる。それでも、郷ひろみのイノセンスな感覚は他の2人には無い魅力となっていたと思う。

こうして1970年代のジャニーズ事務所を支えるスターとなった郷ひろみだが、1975年春、ジャニー喜多川との考え方の食い違いから事務所を退所する。

タレントが事務所をやめるという場合にトラブルとなるという話もよく聞くが、郷ひろみの場合はスムーズに移籍交渉がまとまり、レコードリリースのローテーションにも影響は見られず、その後もコンスタントに新曲を発表していく。

勝手な想像だけれど、このスムーズな移籍は、郷ひろみに去られる側のジャニーズ事務所サイドも、彼の将来性を本当に大切に考えていたということの現れなのではないかとも思う。

移籍後もシングルは筒美京平が作曲

改めて振り返ってみても、事務所移籍後の郷ひろみの音楽性にとくに変化を感じないのは、レコード会社の制作陣が変わっていないこと―― そしてとくにシングルの作曲を引き続き筒美京平が手掛けていることが大きかったのではないだろうか。

郷ひろみの年齢的成長に応じて作詞家は入れ替わっていくが、作曲はデビュー曲以降、1977年の22枚目のシングル「洪水の前」までを、外国曲のカバー(「バイ・バイ・ベイビー」1975年。オリジナルはフォー・シーズンズ)以外、一貫して筒美京平が手掛けている。

とくに1975年の「逢えるかもしれない」以降は楽曲ごとに曲調を変えて、シンガーとしての表現の幅を広げながらも、成長していくひとりのキャラクターを一貫して描いていくという印象が、それぞれの楽曲から感じられる。

「帰郷 / お化けのロック」と「林檎殺人事件」で感じた新境地

そんな郷ひろみにとって大きな転換期になったのが「帰郷 / お化けのロック」(1977年)だろう。2曲ともに郷ひろみが主演したテレビドラマ『ムー』のテーマ曲で、作詞:阿木耀子、作曲:宇崎竜童のコンビが手掛けている。

阿木×宇崎は、前年の1976年に山口百恵に「横須賀ストーリー」を提供しているが、『ムー』のスタッフに、彼らの作風が時代をリードする可能性を嗅ぎつけたスタッフがいたのかもしれないと想像したくなる。

ともあれ、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのバラードを思わせる演歌ロック調の「帰郷」、そして共演の樹木希林とコミカルにデュエットする「お化けのロック」は、郷ひろみにとって新境地と感じられる楽曲だ。

翌1977年に阿木×宇崎は郷ひろみに「禁漁区」を提供しているが、同じ年に山口百恵に提供した「イミテイション・ゴールド」とある意味 “対” になる作品なのではないかとも思える。これもまた興味深い曲だ。

こうした郷ひろみの新境地をさらに印象付けたのが「林檎殺人事件」(1978年 作詞:阿久悠、作曲:穂口雄右)だろう。これは『ムー』の続編となるテレビドラマ『ムー一族』の挿入曲で、いわば『お化けのロック』の発展形だ。

「こんな歌も歌いこなせるのか!」という感想とともに、「どんなにコミカルに演じても郷ひろみは郷ひろみ」というオーラを再確認した人も多かったのではないかと思う。

1980年代の作品にはどんなものが?

1980年代に入ると、郷ひろみは型にこだわらないスタイルのヒット曲を連発するようになる。

1980年には、南佳孝の「モンロー・ウォーク」を「セクシー・ユー(モンロー・ウォーク)」のタイトルでカバーしたり、カネボウのキャンペーンソング「How many いい顔」を歌ったりしているし、1981年には一歩間違えばコミックソングとなる「お嫁サンバ」を見事に歌いこなしている。

1982年にはバーティ・ヒギンズの「カサブランカ」をカバーした「哀愁のカサブランカ」を大ヒットさせ、1984年には「2億4千万の瞳-エキゾチック・ジャパン」、さらに1999年にはリッキー・マーティンの「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」のカバー「GOLDFINGER'99」をヒットさせるなど、時代の中で “印象に残る曲” を発表してきている。

“印象に残る” 作品として、1983年に発表したアルバム『比呂魅卿の犯罪』にも触れておきたい。サウンドプロデューサーに坂本龍一を迎えたこのアルバムでは、坂本龍一の他、中島みゆき、忌野清志郎、矢野顕子、糸井重里らを作家として迎え、郷ひろみ自身が書いた楽曲も収められている。さらにYMOも演奏に参加しているというきわめて振り切ったアルバム。

郷ひろみはこうした作品にも果敢に挑戦しているのだ。

楽曲の世界に自分を投入して演じた“本気の役者”

こうして郷ひろみの足跡を見ていくと、タイプこそ違えきわめて強烈な個性をもつ楽曲の世界観をきっちりとやり切ることで、その魅力を力技で成立させ、輝かせているシンガーなのだということが感じられる。

その意味で、郷ひろみは “本気の役者” なのだと思う。そして、それは郷ひろみのキャラクターに寄せて書かれたと思われる初期の曲についても言えることだったのかもしれないとも感じられる。

デビューした時から、郷ひろみは楽曲の世界に自分を投入して演じ切ってきた。それは、自らの想いを楽曲に投影していくシンガーソングライターとは真逆の姿勢かもしれない。しかし、その表現力に卓越したものがあったからこそ、彼は時代を越えて輝いていくことができたのではないか―― と思う。

最後に勝手な妄想だけれど、書いているうちに、もし1975年以降もジャニー喜多川が郷ひろみを手掛けていたとしたら、どんな世界が見られたのだろうか―― と、ちょっと想像してみたくなったりもしてしまった。

カタリベ: 前田祥丈

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