伊藤詩織氏の「いいね」訴訟はジャーナリズムの自殺行為だ|山口敬之【WEB連載第19回】 伊藤詩織氏は、ジャーナリストを自称している。ジャーナリストを標榜するのであれば、言論や表現の自由を出来るだけ制限しない社会を目指すのが当然だ。だが、伊藤氏が作り出そうとしているのは、「気軽にSNSボタンも押せない息苦しい社会」である――。

伊藤詩織氏に対する強い違和感

伊藤詩織氏(33)が、自身を誹謗中傷するツイッター上の投稿に「いいね」を押され名誉を傷つけられたとして、自民党の杉田水脈衆院議員に220万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁の石井浩裁判長は10月20日、杉田氏に55万円の支払いを命じた。

一審の東京地裁は、「『いいね』を押す行為そのものは、原ツイートへの賛意や肯定的意志を示すとは限らない」などとして、伊藤氏の訴えを退けていた。

まず読者の皆さんに把握していただきたいのは、伊藤詩織氏は私に「薬物を盛られた」などと事実でないことを記者会見などで繰り返し述べるという「不法行為」が認定され、私の名誉を毀損したとして損害を賠償することを求めた判決が確定している人物であるということである。

妄想をあたかも事実であるかのように世界中に喧伝して私の名誉を毀損した伊藤詩織氏が、他者の「いいね」によって損害を受けたとして訴訟を提起した経緯には、そもそも強い違和感を覚えていた。

気軽に「いいね」を押せない社会

「『いいね』はツィートへの賛意とは限らない」という、ごく常識的な判断を下していた一審判決をひっくり返した今回の高裁判決を聞いて、私は暗澹たる思いになった。

SNSは現代社会に生きる我々にとって、娯楽の域を超えて生活の必需品であり、情報インフラの根幹を為すものとなっている。

そしてTwitterやFacebookには、他者の投稿などに対する反応として「いいね」やリツイートなど、様々なアクションを取る「ボタン」が付いている。

この「いいね」などの各種ボタンは、投稿への賛意を示す意図だけでなく、備忘録として押す方も、賛同できないが注目せざるを得ないという意味で押す方など、使い方は様々だろう。

そして「わざわざコメントを書く程ではないが、原ツイートの指摘する問題に関心があるという意志を示しておこう」という、気軽な意思表示であり、ネット上での議論に対するある種の「消極的参政権」として機能してきた。

ところが伊藤詩織氏は、こうした行為で自身が傷ついたとして訴訟を起こした。

伊藤詩織氏は、「いいね」ボタンに込められた多様な意志を自身への攻撃と決めつけ、そうした行為をやめさせようとした。

判決後に記者会見した伊藤詩織氏は、今回の判決をインターネット上の誹謗中傷の解消に向けた「第一歩」と評価し、「指先一つのアクションだけでどれだけ誰かを傷つけてしまうかを『いいね』を押す前に考えてほしい」と笑顔で語った。

この訴訟と判決で、日本は「いいね」を押すだけで数十万円もの賠償が命じられる可能性がある国となったのだ。

読者の皆さん一人一人のインターネット上での意思表示にも、今後は大きな逡巡が生じるだろう。
「気軽にSNSボタンも押せない息苦しい社会」を作り出そうとしているのが、伊藤詩織氏だ。

ジャーナリズムは言論と意思表示の自由に依拠

伊藤詩織氏は、ジャーナリストを自称している。

ジャーナリズムとは、そもそも憲法21条に明記された「言論の自由」があって初めて自由闊達に機能する職業だ。しかし「言論の自由」は大日本帝国憲法でも29条に明記されていた。

29条は「日本国民は、法律の範囲内において、言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する」とした。戦前は「法律の範囲において」という但し書きを逆手にとった言論弾圧が横行した。

現行憲法の21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっている。

ジャーナリズムとは、国民一人一人の意思表示の自由の上に成り立っている商売である。そしてその自由のレベルは、憲法と法律の解釈と運用によっていかようにも変更しうるものであることは、大日本帝国憲法下の日本を見れば明確である。

現行憲法下においても、裁判所の判決いかんで、言論の自由の範囲や程度は自在に変化する。

ジャーナリストを標榜するのであれば、言論や表現の自由を出来るだけ制限しない社会を目指すのが当然だ。

私はこれまで、伊藤詩織氏との訴訟に関連して数えきれない誹謗中傷を受けてきた。もちろん限度を超えた侮蔑については複数の訴訟を提起している。

しかし私を明らかに誹謗中傷するツイートやFacebook投稿に「いいね」を押した人に対して訴訟を起こそうなどとは考えたこともなかった。それは、ジャーナリズムという自身の職業の地盤を危うくする自殺行為だと感じていたからだ。

(写真撮影・編集部)

私への誹謗中傷ツイートへの「いいね」について

私は伊藤詩織氏との裁判を通じて、伊藤詩織氏の嘘や矛盾を証拠や証言を添えて数多く証明した。しかし裁判所は、「当時は混乱していた」などとして本質的な矛盾にも目を瞑り、伊藤詩織氏が創作した矛盾に満ちたストーリーを追認した。

人間が人間を裁く以上、裁判に完璧はない。声高に被害者であることを強調し、メディアや一定勢力に守られた人物の主張を根幹から否定するのは、裁判長にとっても容易なことではなかろう。

今回の高裁審理で伊藤詩織氏の被害者しぐさは、判決にどの位影響を与えたのだろうか。

これを確認する手がひとつある。私に対する過激で違法な名誉毀損ツイートに「いいね」を押した人物に対して、私が訴訟を起こしてみることである。

日本の裁判所が、先入観なく事実を見つめ、公平公正な判決を下すのであれば、私にも同じ判決が下るはずだ。私の周りには、「司法の健全性を確認するためにも、ぜひ同様の訴訟を起こして欲しい」と申し出る方もいる。

伊藤詩織氏のアクションと今回の石井浩裁判長の判決によって、日本はより息苦しい社会となってしまった。そのことに対する問題提起として自分で何をするべきか、皆さんのご意見を拝聴しながら、しばらく考えたいと思っている。

著者略歴

山口敬之

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