社内人事一新!マライア・キャリーを大成功に導いたアメリカCBSのウラ事情  マライアのスーパースター化を支えた編成戦略

1990年にデビュー。マライア・キャリーの想い出

1990年は、1月に私がCBSソニー洋楽の部門長になった年で、記念すべきローリング・ストーンズの初来日公演などもありましたが、これは興行会社がリスクを冒して招聘してくれたビジネスであって、我々も便乗しただけのこと。実はレコード会社のマーケティング&プロモーション部隊として最もエキサイティングな仕事は、新人アーティストをデビューさせ、これを成功させることです。この意味において、同じ1999年にデビューしたマライア・キャリーの想い出は、いまでもストーンズ以上に深く残っています。

マライアに関しては、本国アメリカおよび各国CBS、そして日本でも同じですが、メジャー会社の大プライオリティとして世に送り出され、シングル曲も連続全米No.1を獲得するなどして、期待通りに大ヒットしました。デビュー後、そのままスーパースターの道を歩んでいる… というサクセスストーリーは洋楽ファンなら誰しもが知っています。

とは言え、いまさら彼女の音楽性に関する分析は本職のクリエイター達に任せるとして、彼女を送り出した発信側、つまり本国アメリカCBS RECORDSの事情をメインに書いていこうと思います。

デビューアルバム「マライア」、アメリカ本国から2ヶ月遅れで発売

マライアのレコードは、アメリカ本国では先行シングルとして「ヴィジョン・オブ・ラヴ」が1990年5月にリリース。続いてファーストアルバム『マライア』は6月に発売されています。そして、日本ではファーストアルバムが2ヶ月遅れの8月22日に発売されました。

ただ、こちらの発売日の数週間前には、シングル曲はアメリカでは既にビルボード・チャートでNo.1を獲得しており、アルバムも3位まで上昇していました。日本でもプライオリティとしてブレイクを狙ってましたが、アメリカでの特大ヒットのフォローウィンドを受けて、予想を超える勢いでロケットスタートをきることができたのです。

とは言え、この頃すでに “安い・早い・輸入盤” もタワーレコード中心に隆盛を極めており、洋楽各社にとっても、自分達が発売する国内盤のライバルとして相変わらずの脅威があったはずです。しかも、これほどの大型新人にもかかわらず、アメリカ本国から2ヶ月遅れてのアルバム発売は何故? の疑問が蘇るのです。

じつは彼女、本国ではデビュー2年前の契約直後から鳴り物入りで、その新譜が待ち望まれていたのですが、残念ながら、こちら日本にはその本国の熱いエネルギーどころか、名前すら伝わっていません。詳細が分かって音源が届いたのは本国でのデビュー前後。こちらでは8月新譜を決める社内編成会議が行われる直前でした。

マライア大成功の最重要キーパーソンは?

マライアの日本でのデビューを思い出す時、私の中では3人の人物の顔がすぐに浮かびます。SONYによるCBSレコーズ買収を受けて新社長、トミー・モトーラが就任。彼はホール&オーツやジョン・クーガー・メレンキャンプなどが属する芸能事務所の社長でしたが、一気に大会社のトップに抜擢されました。

その彼があるパーティでマライアから直接デモテープを受け取り、中座した帰りの車の中で聴いた途端に、Uターンして会場に戻ってマライアを探し契約したという有名なエピソードがあります。後に彼女の夫にもなった人ですし、新社長として彼が行った組織変更や人事戦略がマライアを発進させたカタパルトになっています。つまりまずは、この事においてマライアが大成功の最重要キーパーソンであったことは間違いありません。

そして傘下のコロムビア・レーベル、つまりマライアの発売元ですが、トミーはドニー・アイナーと言う宣伝マンを、他社から引き抜き、レーベルのヘッドに登用しています。メジャーレーベルの社長としては各社見渡してもありえないほどダントツに若い36歳社長の誕生です。

彼は、優秀なラジオ・プロモーション・マンでありマーケティング・マンでした。その彼を有名にしたのがアリスタレーベルでのホイットニー・ヒューストンの大成功でした。女性ヴォーカリスト、ディーヴァ系は彼の得意領域。トミーはマライアを意識して彼をハイヤーしたはずです。大レコード会社そしてメジャーレーベルの社長がなんと40歳と36歳。若いチームが出来上がりました。

私も彼らには会ったことありますが、とてもエネルギッシュな人達でした。この二人が揃ったこと。そしてアメリカの会社は上が替わると、とかく下も大幅入れ替えが起きるのですが、マライアのデビュー前には、トミーは若いドニーが仕切りやすいように古参スタッフを主流から外し、社内人事を一新しています。

この外されたスタッフの一人に与えられたミッションが、アメリカ以外の国々に対してのコロムビア・レーベルの情報サプライサービスでした。この任務は日本にとっては、大ウェルカムで、我々からしてみれば、彼は突然現れたホワイトナイトのようなものに映ったのです。

というのは、CBSレコーズの中には、アメリカ以外の国々に対する情報サプライ窓口としての、“International” と言う組織があり、取材依頼や商品製造素材なども全てここを通じて行われていました。新任のトミーとドニーたちは、新人アーティストの打ち出しに集中していたし、アメリカ以外の国々を見渡す余裕はなかったはずです。さらに生身アーティストを相手にしてきたり、ヒットマーケティングを成業にしてきた彼等からは、このやや管理的な国際部組織に対してネガティブな印象を持っていたに違いありません。

国際部組織の経年劣化もあり、国内部門との関係は決して良好なものではなかったようです。こういう背景があり、マライアのアメリカ国内での動きは我々に届いてなかったし、そもそもどこまでの情報が、この組織に伝わっていたのかは分かりません。つまり、トミーはアメリカ国内制作の中に、この国際部的な職務と一部抵触する機能を設けたということですが、ここに私の目から見えた3番目のキーパーソンが登場したのです。その名も、ボブ・シャーウッドと言います。彼は直前までコロムビア・レーベルの宣伝本部長の職務に就いてました。

そういうわけで社内のハレーションはあったものの、ボブを介することにより、リアルタイムに、アメリカ国内でヒット作りに汗かいている当事者的な生々しい情報とエネルギーを共に入手できたことは、我々の日常業務を大いに活気づけてくれたのです。

その彼がこの年の多分5月頃、私のNY出張時か、彼が就任挨拶で東京を訪れた時だったか忘れましたが、彼が我々にマライアの状況を尋ねた時、こちらは思わず “?… それ誰?” となったことから、事は大騒ぎになったのでした。これをきっかけに、マライアの情報が急激に増え、日本でも一気にプライオリティとして持ち上げられ、大成功につながった… というBサイドの出来事があったということです。

アルバム「メリー・クリスマス」の特大ヒット! スーパースターの道へ

その後のマライアのスーパースターへの道につながるものとして、印象深い思い出があります。ドニー就任直後のCBSコンヴェンションでのスピーチをよく覚えています。

「スーパースターと言えども、新譜リリースを学ぶべき」

―― と。つまり、”大物アーティスト” と言えでも、新譜発表のブランクがあり過ぎると、かって程は売れなくなる。移り変わりやすいマーケットなので、コンスタントに新曲を発表するべきとのメッセージでした。

レコード会社の制作当事者としては、一番身に染みるメッセージです。マライアのサクセスストーリーを訊かれた時、実は私は必ずこのドニーの言葉を付け加えていました。継続的に新譜が出ていくということが、レコード会社の我々にとってどれほど重要なことなのかですが、一回だけの成功は出来ても次の保証はありません。

最初の成功から次の新譜がでていく時、マーケットに余熱さえあれば、初動で費やしたエネルギーや宣伝費も無駄にならず、シナジー効果を生んで連続して畳みかけることができるのです。

振り返ってマライアの新譜発売時期を見ていくとよく分かります。デビューの翌1991年9月には2枚目のアルバム『エモーションズ』、92年6月にはMTVアンプラグド、93年9月は3枚目の『ミュージックボックス』と続き、これが結果として94年11月にリリースされ「恋人たちのクリスマス」が収録された4枚目のアルバム『メリー・クリスマス』の特大ヒットにつながっていったのです。収録されている楽曲の素晴らしさは当然として、この編成戦略が、マライアのスーパースター化を支えていたのも事実だと思います。

マライアのデビューからの大成功には、私の眼にはこのトミーとドニーのパワフルコンビ、そして日本に限って言えば、このボブを加えたこの3人の存在が大きな存在と映っています。

カタリベ: 喜久野俊和

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