【中原中也 詩の栞】 No.46 「冬の夜」(詩集『在りし日の歌』より)

みなさん今夜は静かです
薬鑵(やかん)の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです

それで苦労もないのです
えもいはれない弾力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです

えもいはれない弾力の
澄み亙(わた)つたる夜(よ)の沈黙(しじま)
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです

かくて夜は更け夜は深まつて
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです

【ひとことコラム】ストーブにかけた薬缶が立てる小さな音が、かえって静寂を強く感じさせる夜。詩人はそこに独特な手触りを感じ取り、異性への憧れを投影します。物の影、煙草の味と香、犬の声を加えて、五感に通じる情景を結ぶ最終連にも、孤独な遊戯としての自負と自嘲が滲(にじ)んでいます。

(中原中也記念館館長 中原 豊)

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