<ミャンマー>久保田さん拘束事件の真相(3)20人すし詰め「地獄」の留置所 獄中でハンスト 

久保田徹さんが獄中で隠れて描いた留置所の様子。

昨年7月にミャンマーで逮捕されたドキュメンタリー作家の久保田徹さんは、拘束2日目の取り調べで、「これからお前が行くところは地獄のようなところだ」と告げられた様子は前回に述べた。一日目はエアコンの効いた署長室で寝たが、2日目に警察署内の留置所に送られることになる。(ジャーナリスト・北角裕樹

◆警棒で殴られるのを目撃

久保田さんは、7月31日から8月4日まで、2か所の留置所で拘束されていた。「日の光も入らず、壁や天井にはほこりが何層にもこびりつき、つららのようにぶら下がっていた。悪臭もひどく、地獄のようだという意味が分かった」と話している。

長さ5メートル、幅2メートルほどの牢屋に20人以上の拘束者がすし詰めになっていた。簡単な囲いの中に穴が開いているだけのトイレの匂いのほか、隣り合う人の体臭も酷かった。夜は、足を延ばして寝ることもできなかった。「何か病気が蔓延する可能性が非常に高い」と感じたという。

彼は獄中で隠れて書き留めたメモやスケッチを残している。その一枚が、この留置所の様子だ。縦に横にと人が折り重なるように寝ている様がわかる。中には数カ月にわたってこの留置場に収容されていた政治犯もいたという。市民団体の調査によると、クーデター後に毎月数百人の政治犯が拘束されており、過密収容が指摘されている。彼の証言やスケッチでこのことが裏付けられた形だ。

久保田さんはまた、捜査当局による暴行を目にしている。帰国後の記者会見で「別室に連れていかれる人々が警棒のようなもので暴力を振るわれているのを見た」と証言した。また、「目が真っ赤に充血して、あざができている少年が運ばれてくるのを見た」と話している。

◆「大使館と連絡取れるまで食事しない」

昨年11月29日に日本記者クラブで会見した久保田徹さん

◆「大使館と連絡取れるまで食事しない」

久保田さんは「大使館と直接連絡が取れるまでは、食事をしない」と宣言し、留置所で提供される食事を拒否していた。大使館員と接見するのは、自分の権利だと思ったからだ。「事実上のハンガーストライキだった」と久保田さんは話す。

この時、日本大使館は久保田さんとの面会を求めていたが認められず、おにぎりなどの差し入れをすることし

かできなかった。久保田さんは警察が提供する食事には手をつけず、日本大使館から差し入れられた食べ物のみを食べることにした。アウンサンスーチー氏も同様に当局から提供される食事を拒否して抗議をしていたことで知られているが、拘束中の久保田さんはそのことは知らなかったという。

実は筆者は、久保田さんが拘束中の記事で、「(久保田さんが)ミャンマー料理を受け付けなかった」と書いていたが、これは誤りである。料理が口に合わなかったのではなく、抗議の意味で手を食べなかったのだ。

一方で、このハンストの目的をミャンマー側が十分認識していたかということには疑問も残る。日本大使館とのやり取りの中で、ミャンマー当局は「このおにぎりはいくらするのか。彼はおにぎりなら食べるので、我々が用意しようか」などと話していたというのだ。

いずれにしても、日本大使館が久保田さんと初めて電話で話すことができたのは、拘束されて3週間以上経った後だった。ハンストは、8月4日にインセイン刑務所に移送されたことから、久保田さんが「長期戦になる」と覚悟し、体力づくりを優先するという判断を下すまで続けられた。

次回は、久保田さんがインセイン刑務所に移送された後の出来事について詳述したい。

北角裕樹(きたずみ・ゆうき)
ジャーナリスト、映像作家。1975年東京都生まれ。日本経済新聞記者や大阪市立中学校校長を経て、2014年にミャンマーに移住して取材を始める。短編コメディ映画『一杯のモヒンガー』監督。クーデター後の2021年4月に軍と警察の混成部隊に拘束され、一か月間収監。5月に帰国した。久保田徹さん拘束中は、解放を求める記者会見を開くなど支援活動を行った。

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