みんなのブルーハーツ「ロクデナシ」真島昌利のフレーズ “生まれたからには生きてやる”  スージー鈴木の大好評連載! マーシーがキーワードにした5文字のコトバ

みんなのブルーハーツ ~vol.9 ■ THE BLUE HEARTS『ロクデナシ』
作詞:真島昌利
作曲:真島昌利
編曲:THE BLUE HEARTS
1987年11月21日(アルバム『YOUNG AND PRETTY』)

「全てのボクのようなロクデナシのために」

あと1曲だけ、セカンドアルバムから取り上げたい。

前回『英雄にあこがれて』の最後の最後に、今回の『ロクデナシ』にある珠玉のフレーズを記したのだが、それがなぜ珠玉かということを書きたくなったのだ。

そのフレーズについては後述するとして、まずはこの『ロクデナシ』について。正直にいえば、当時の私が、あまり意識していなかった曲だ。むしろ兄弟曲といえる『ロクデナシⅡ(ギター弾きに部屋は無し)』の方が、分かりやすくて鮮烈だった。

それにしても、1枚のアルバムで「ロクデナシ」という曲を2曲も収録するなんて、当時の真島昌利にとって、この5文字がキーワードになっていたのだろう。

主人公は、それはもう悲惨な状況にある。「役立たず」「最低」「死んじまえ」「このバカ」と言われ続けているのだから。

対するのは「要領良く演技」「愛想笑い」「うまい具合に世の中とやっていく」こと。これが出来なくて、主人公は「罵られ」続けている。この歌詞でまず刺さるのは、そんな「ロクデナシ」が主人公=「ボク」であることだ。

「がんばろう系J-POP」に対する違和感

私は何度となく、90年代以降の「がんばろう系J-POP」に対する違和感を表明してきた。慌てて補足すれば、「がんばろう系J-POP」で「がんばろう!」と沸き立っている音楽ファンを攻めるつもりは毛頭ない。また私自身、音楽を聴いて発奮することは、ままある。

私が問題としたいのは、主人公と聴き手との関係だ。

「がんばろう!」「夢を信じよう!」「そうすれば、いつか未来がひらけるよ!」と歌うのはいいけれど、多くの「がんばろう系J-POP」において、それはすでに、夢を信じてがんばって、未来が開けて、メジャーデビューするほどに成功した音楽家という大上段の立場から、まだまだしょぼくれている聴き手に歌っていた気がするのだ。

対して、この『ロクデナシ』は、「♪全てのボクのようなロクデナシのために」=ロクデナシそのものの物語なのである。言い換えると、ロクデナシから脱却した立場からロクデナシを諭すのではなく、ロクデナシ自身がロクデナシでいいと開き直っている歌――。

後に触れざるを得ない『人にやさしく』(88年。インディーズでは87年)。その中には「ガンバレ!」という、あからさまなフレーズが出てくるのだが、私のいう「がんばろう系J-POP」と違うのは、歌っている者自身がロクデナシで、かつ自分にも「ガンバレ!」と言っている感じがするところに、あの曲の魅力の本質があると思うのだけれど。

「♪全てのボクのようなロクデナシのために」に続くのは「この星はグルグルと回る」。ロクデナシがど真ん中にすっくと立ち、地軸となって地球が回っていく――

そんなダイナミックな映像が浮かんでくるフレーズになっている。

立ち位置の問題なのだと思う。成功した音楽家がど真ん中で、同心円の端っこに聴き手のロクデナシが置かれる歌なのか、ロクデナシがど真ん中、つまり地軸になって、主体的に地球をグルグルと回す歌なのか。

私は後者がいい。そして、誰かに「ガンバレ!」と焚き付けられるのではなく、自分で地球を回すときのグルグルという音が自然に、自分への「ガンバレ!」に変わっていくような歌の方が、私にとっては正直なのだ。

「ヒットラー」や「ゲッベルス」を歌詞に差し込む真島昌利

主人公の悲しい物語は続く。2番では「お前なんかどっちにしろ いてもいなくても同じ」とまで言われてしまうのだから。そんな2番で私が注目するのが、「そんな事言えるアナタは ヒットラーにもなれるだろう」である。ここで「ヒットラー」という単語をぶち込むことだ。

ヒットラー―― 最近では「ヒトラー」と表記されることが多い気がする。いうまでもなく、アドルフ・ヒトラーのこと。

この「ヒットラー」という文字列で思い出すのは、同じく真島昌利作詞・作曲、AAA(トリプル・エー)のシングル『ハリケーン・リリ,ボストン・マリ』(06年)という曲である。

私はこの曲をリアルタイムでは知らなかったのだが、2016年のNHK紅白歌合戦で見て、中間部の歌詞に驚いたのだ。

――「♪ブロードバンドにゲッベルスの幽霊忍び込んだぞ!」

ゲッベルス―― こちらはよく「ゲッペルス」と発音・表記されるが、正しくは「ゲッベルス」。ヨーゼフ・ゲッベルスという、ヒトラーの下で国民啓蒙・宣伝大臣を務めた人物のこと。

私は、広告代理店に勤めていたので、このゲッベルスという男の凄みを少しは知っているつもりだ。マーケティングや広告、デザインセンスが、ヒトラーとナチスに、いかに力を与えたかということを。

という前提で、「ブロードバンドにゲッベルスの幽霊忍び込んだぞ!」という文字列を見ると戦慄が走る。頭の中を「フェイクニュース」とか、最近では「ルフィ」とか何やらが駆けずり回る。

2016年紅白で、AAAの出番は早かった(白組の2番目、全体では3番目)。NHKホールの舞台全体が、タオルのようなものを回して盛り上がっている。そんな中に差し込まれる「ゲッベルス」の異物感たるや。

まぁ、ブルーハーツのことだから、「ヒットラー」にも「ゲッベルス」にも「そんなに深い意味はねえんだよ」ということになるのだろうが、それでもロック / ポップ音楽の中に、こういう歴史的な「異物ワード」を差し込むのは、彼ららしいと思うし、私は嫌いではない。

私が嫌う、いや苦手なのは、「バカがバカに対して供給する」( 『ラインを越えて』の回参照)という、若者向け音楽にしばしば見え隠れする前提だ。「ヒットラー」や「ゲッベルス」のような単語を面倒くさい、しゃらくさいとするような前提。私の人生も残り少ないから、そんな前提に付き合っている暇はない。

その「ヒットラー」の前に添えられるフレーズもまた強烈だ――「痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫」。みなさんは何を想起しますか? 私は……。

そういえば真島昌利は、中原中也の顔がプリントされたTシャツをよく着ていた。音楽評論家の今井智子によれば、真島昌利はインタビューで「中原中也や萩原朔太郎も、今生きていたらロックやってたんじゃないか」と話したという。白状すれば、私は中原中也や萩原朔太郎も、さらにいえばヒットラーもよく知らない。ゲッベルスも正直、上辺だけだ。

それでも、中原中也を着て、「ヒットラー」や「ゲッベルス」を歌詞に差し込む真島昌利のことは知っている。そして誇らしいことに今、その真島昌利について書いている―― と思いながら、残り少ない人生を生きていきたい。

「生まれたからには生きてやる」からのライフストーリー

これが、前回取り上げた『英雄にあこがれて』の「おしまれながら死んでゆく 英雄にあこがれ」の対義語だ。曲の中盤で、リズムがゆったりとしたレゲエに変わった後、再度テンポアップしたところで歌われる、いや叫ばれるフレーズだ。

いいな。

「生まれたからには生きてやる」「生まれたからには生きてやる」―― 何度も繰り返したくなる。

様々な歌詞の意味を統合するAIがあるとして、ロックの歌詞を、そのAIにぶち込んで、ガラガラポンした結果のようなフレーズだと思う。あ、もしかしたら「こんな夜に おまえに乗れないなんて」も同時に出てくるかもしれないが。

私の好きな真島昌利フレーズをつないでライフストーリーを作れば、「生まれたからには生きてやる」→「幸せになるのには別に誰の許可もいらない」→「俺は俺の死を死にたい」。

「幸せになるのには別に誰の許可もいらない」はハイロウズ『夏の朝にキャッチボールを』(01年)から。「俺は俺の死を死にたい」はブルーハーツの同名の曲(93年)から。生まれたからには生きて、自分らしく幸せになって、自分の名の下に死んでいく。

先に「残り少ない人生を生きていきたい」と書いたが、その理由があるとすれば、もちろん――「生まれたから」、だ。

次回はいよいよ、あの「ガンバレ!」を読み解く。

カタリベ: スージー鈴木

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