唐代揚州城跡で発見の城壁、定説覆す可能性 中国江蘇省

唐代揚州城跡で発見の城壁、定説覆す可能性 中国江蘇省

揚州市の桑樹脚遺跡。(資料写真、小型無人機から、揚州=新華社配信)

 【新華社南京3月8日】中国江蘇省文物考古研究院は、同省揚州市の揚州城遺跡の一部をなす桑樹脚遺跡で見つかった一区間の版築城壁(土を突き固めた城壁)が、揚州城羅城(大城)の北側の城壁だと確認されたと明らかにした。唐代の揚州城は羅城と子城に分かれているが、専門家は今回の発見を受け、羅城と子城を隔てる城壁が必ずしも一続きではなかったとの見方を示しており、これまでの定説が覆る可能性がある。

唐代揚州城跡で発見の城壁、定説覆す可能性 中国江蘇省

唐代揚州城の羅城北城壁西段部分の発掘現場。(資料写真、揚州=新華社配信)

 桑樹脚遺跡の面積は20万平方メートル余りで、2017~21年に揚州市文物考古研究所が都市インフラ整備に合わせて遺跡と周辺で実施した大規模な調査・発掘で唐宋時代の建築基礎を多数発見。22年からは中国社会科学院考古研究所と南京博物院、揚州市文物考古研究所からなる揚州唐城考古学調査隊が学術発掘調査を行っていた。

唐代揚州城跡で発見の城壁、定説覆す可能性 中国江蘇省

唐・宋・明各時代の揚州城の配置と桑樹脚遺跡の位置(赤い三角)を示す図。(揚州=新華社配信)

 発掘のリーダーを務める中国社会科学院考古所の王睿(おう・えい)副研究館員によると、見つかった城壁は羅城北城壁の西段部分で、年代は唐中期から末期。数回の修復を経ているという。基礎溝や版築城壁、城壁表面を覆うれんがの基礎溝、れんが舗装、れんが積みなどからなり、『」』形をしていた。試掘調査による南北の長さは256.8メートル、東西は173.8メートルだった。

 王氏は「唐代揚州城の歴史的な平面図は、子城と羅城の間が1本の線で描かれており、われわれも一続きの城壁で隔てられていたと考えていた。今回の発見により、羅城と子城の間には二つの部分の城壁があったと推測できる」と説明。唐・五代十国から南宋にかけての揚州の都市形態と沿革を深く研究する上で貴重な資料になると語った。

唐代揚州城跡で発見の城壁、定説覆す可能性 中国江蘇省

桑樹脚遺跡の出土品。1.「官」文字磚、2.「撫州」「官」文字磚、3.「東窯董従」文字磚、4.蓮花文方磚、5.蓮花文瓦当、6.「官」文字瓦、7.銅製弩機、8.獣頭。(資料写真、揚州=新華社配信)

 遺跡の出土品は建築部材が中心で、板瓦や筒瓦、瓦当(がとう、筒瓦の先端部分)、獣頭、方磚(ほうせん、方形や長方形のれんが)、条磚(通常より細長いれんが)などがあった。一部の板瓦には「官」「官由」などの文字が刻まれ、一部の条磚には平面に「羅城」、端面と側面に「官」などの文字が刻印されていた。陶磁器片や銅製の弩機(どき、弩の発射装置)、貨幣なども見つかった。

 王氏は、五代十国時代の呉(楊呉)と南唐は揚州に都や東都を置いており、これまでの考古学発見と文献記録を総合すれば、桑樹脚遺跡は唐代の大雲寺(後に開元寺へ改名)、唐末に楊行密(よう・こうみつ、楊呉の事実上の建国者)が邸宅を寄進した光孝院、楊呉と南唐の官庁、宋~清代の鉄仏寺、宋代の光化寺との関係が推測されると指摘。遺跡一帯は楊呉、南唐の遺構を探す重要地点になっていると説明した。(記者/蔣芳、邱冰清)

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