2人の「小嶺監督」への思い胸に V長崎を支える“右腕” 倉石圭二HC(41)

亡き2人の小嶺監督への思いを胸に、第二の古里で指導する倉石HC=諫早市サッカー場

 サッカーJ2で現在2位につけるV・ファーレン長崎。下平隆宏監督の“右腕”として好調なチームを支えるのは、倉石圭二ヘッドコーチ(HC)だ。宮崎県出身で、中学、高校の6年間は国見でサッカー漬けの日々を送った41歳。練習では、主にポゼッションや、セットプレーの攻撃面を任されている。「監督のやりやすい環境をつくるのが自分の役目」。第二の古里のクラブに携われる喜びを感じながら、指導に熱が入る。

■「黄金世代」
 国見高時代は元日本代表の大久保嘉人や元V長崎の田上渉らと同級生で、2000年度のインターハイ、国体、高校選手権を制した「全国3冠世代」。専大卒業後に宮崎に戻り、05~09年は企業チームのホンダロック(現ミネベアミツミFC)でプレーした。V長崎とは九州リーグや日本フットボールリーグ(JFL)でしのぎを削った。
 09年に宮崎日大高でコーチとなり、指導者人生がスタート。17年に当時九州リーグだったテゲバジャーロ宮崎のHCに転じた。18年途中から監督に就任。20年にJ3昇格に導いた。Jリーグの監督に必要なS級ライセンスを持っていなかったため、21年はコーチとしてJ3初年度3位に貢献。22年から横浜FCのコーチでJ1昇格を経験するなど、キャリアを積んできた。
 昨季終了後、複数のクラブから誘いがあった中、V長崎からのオファーを快諾した。「縁があるところでやりたかった。こんな話をいただけるなんて、ありがたい」
 長崎との最初の接点は1993年1月、小学4年時にテレビ観戦した全国高校選手権決勝。躍動する青と黄色の縦じまのユニホームに衝撃を受けた。当時の国見高は、のちにJリーグで活躍する三浦淳寛や永井篤志らが主力。山城高(京都)を2-0で下して3度目の優勝を飾ったチームを見て「ここでサッカーがしたい」と強く思った。
 宮崎の小学校を卒業後、12歳で親元を離れて国見中に越境入学。「かけがえのないもの。間違いなく、これまでの人生で一番濃かった」という高校3年間は、故小嶺忠敏監督の厳しい指導に耐え、気の置けない仲間たちと黄金時代を築いた。

■先生の言葉
 指導者を志したきっかけは、国見高で出会った2人の「小嶺監督」の存在だ。恩師は言うまでもなく、一緒に全国3冠を達成した同級生で、2015~17年に同校の監督を務めた後の19年11月に他界した小嶺栄二にも影響された。「小嶺先生の姿をずっと見てきたし、栄二が先にA級ライセンスを取得したから自分も、と。彼が果たせなかったS級を取るのが自分の使命のような気がして…」。23年にそれを実現させた。
 選手時代は自分が指導者になる姿は想像できなかった。なってからも、V長崎で働くとは思っていなかった。いろんな巡り合わせがあって、再び長崎に戻ってきた。「小嶺先生はいつも、人とのつながりや立ち振る舞いの大切さを説いてくれた。それが今の自分をつくっている。先生の言葉を信じてきて良かった」
 今年1月、チームの始動前日。南島原市有家町にある恩師の墓に手を合わせた。
 「長崎で指導をさせていただきます」
 亡き2人の「小嶺監督」への思いを胸に、V長崎のために奔走する。

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