理工系学部の教養・倫理教育と偉才・内務技師宮本武之輔 視野の狭い技術者は危ない、教養を習得させよ!

お雇いイギリス人指導者ヘンリー・ダイヤー(土木学会図書館蔵)

教師の資質の問題

数年前のことである。ある国立高等工業専門学校(高専)の夏休み読書の推薦図書一覧を見せてもらって驚いた。そこには古典的名作(ジャンルを問わない)や科学者、工学者の伝記、評論集などがまったく紹介されていない。物理学者・文学者・寺田寅彦随筆集や詩人・宮沢賢治作品集などはもう古いのだろうか。古典文学や歴史書の名著などは理工科系の教育には無意味なのだろうか。この「新発見」を、知り合いの著名な工学者(大学名誉教授)に伝えてみた。

「その背景は困ったことに簡単です」と氏は顔をゆがめて語り「要するに教師の資質の問題です。教師自身が学生時代に幅広い教養を身につける努力をしなかった。内外の歴史・文学などの名作に接しなかった。歴史・文学・芸術(音楽や絵画など)は無縁のものと思って生きてきたのでしょう」。氏はやや苦りきった表情で結論づけた。

ある著名な国立(当時)工学系研究所を訪ねた時のことだ。文献にあたろうと思い、図書室の本棚を見て回って妙な事実を知った。政治・経済・歴史・文学・芸術といった文科系図書や美術全集などの図書がほとんど置いていない。この事実を知人である研究所の幹部研究者に話してみた。

「ここは工学の高等研究機関であり、文科系の図書、中でも政治をはじめ歴史・文学・哲学のような専門外図書を備える必要は感じていない」と語り、最近では職員からの要望に応えて司馬遼太郎氏ら流行作家の全集を購入したと付け加えた。歴史・文学などは趣味的図書であり「仕事の邪魔もの」とでも言うような口吻(こうふん)であった。工学博士の知人は、戦前の内務省土木局を代表する土木技師のひとり青山士(あおやまあきら)を敬愛していると聞いていたので「青山論」を尋ねてみた。「青山技師は、部下の技術官僚たちに『勤務地の歴史・地理を勉強し、時間の許す限り歴史書や文学書を読み心の糧(かて)とするように』と指導していたとのことだが、同じ道を歩む工学系技術者としてどう考えますか」。

「教養の差でしょうかね」。氏はそっけなく答えた。

倫理教育は人間の尊厳を教えよ

エピソードを続けよう。ある大学(受験戦争では高いランキングを誇る)の土木工学コースで技術者倫理の講義をした時のことである。受講生がちょっとした漢字すら読めないので失望した。

「君たちは本や新聞を読まないね。若いうちにレベルの高い難しい本を読まなければダメだ。もし世のリーダーたらんとするならば教養がなければ話にならない。海外との競争にも勝てない」と苦言を呈した。ついでに「夏目漱石と森鴎外の代表作をあげてみてくれないか」と縦一列に座った学生に前から順々に答えさせた。案の定、半分ほどの学生が近代日本文学を代表する二人の偉大な文学者の作品を正しく答えることができなかった

エンジニアの倫理確立が内外から強く求められて久しい。例えば、大学の土木工学コースでは「土木技術者の倫理」を必修課目に入れるのが当然となってきている。技術者資格の改革・創設や継続教育(Continuing Professional Development :CPD)制度の創設が進められ、専門的能力の開発と合せて技術者倫理の普及と教育が重要なスキームとなっている。

技術者が、自分や自分の属する組織のための暴利にのみ目がくらみ、社会に対する責任・奉仕や納税者への配慮を一方的に放棄したのでは存在基盤を自ら失う(談合がその代表例である)。しかしながら倫理教育がこのレベルで止まってはいけない。人間性の荘厳さを教えることこそが究極の倫理教育ではないのか。国内外の代表的歴史書・文学書(古典)はその尊厳さを伝えてくれないだろうか。最高の芸術は人類普遍の最高の倫理を語っている、と信じたい。                                

明治期、ダイヤーの工学教育論

ここで明治初期のエリート技術者教育を考える。

お雇い外国人教師ヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer、1848~1918)は明治初期に創建された工部大学校の初代都検(教頭職、英語ではprincipal)であった。同大学校は、殖産興業を急ぐ明治政府によって建てられた国立(工部省)の最高等工業教育機関で、帝国大学工科大学(現東京大学)と併合されるまでに、卒業後指導的役割を果たす土木技師や科学者を輩出した。琵琶湖疎水の設計施工で知られる土木技師田辺朔郎もそのひとりで、同校5回卒業生である。

英国・スコットランドの名門グラスゴー大学を卒業したばかりの土木工学者ダイヤーが都検に招かれたのは弱冠25歳の時であった。校長・大鳥圭介(旧幕臣、戊辰戦争での旧幕府軍首脳)は43歳だった。ダイヤーは同校の教育方針として工学の学理と実践を融合させるとの新たな教育理念を打ち立てたことで知られる。氏が第1回卒業生に訴えた講演集「エンジニアの教育」(Education of Engineers)に若き教育者の高等工業教育への情熱を感じ取る。氏はまずエンジニアは「学識ある専門職(learned profession)でならなければならない」と主張する。そしてエンジニア教育の重要課題として3点を強調する。(三好信浩著「ダイヤーの日本」を参考にする)。学力、実践力、教養の「三位一体」の高等教育である。

(1) 専門職である以上、当然のことながら専門分野の高度な学力を必要とする。専門職というとき、氏はスコットランドの大学が元来「教師・牧師・法律家・医師の専門職のための高等教育機関」であったことを指摘し、エンジニア教育も同等のレベルを目標にすべきであると指摘する。
(2)専門職という以上、専門の学力が実践能力となって工業の実務の中に発揮される必要があると述べる。スコットランドでは大学入学前か卒業後にかなりの実務経験(現場経験)をすることが当然と思われていた。経験主義である。士族の子弟が集った工部大学校では、ともすれば作業服に身を包んだ実務を軽視する傾向が見られたのである。
(3)エンジニアがとかく陥りがちな思想や行動の偏狭さを克服するために、教養教育を重視する必要があると論じる。

広い教養を習得させよ

氏の最後の指摘(3)は極めて重要であり、「エンジニアの教育」からさらに引用したい。「諸君は専門職の一般的な細目については十分立派な知識を得たと思いますが、広い公正な考え方で問題を処理するにはなお大いに欠陥があります。公共問題に関する諸君の意見は、専門的偏見と階級的先入観によってゆがめられる傾向にあります。もし諸君が、文学や哲学や芸術(音楽、絵画など)さらには諸君の専門職に直接役に立たないような他の科学にまったく門外漢であったならば、諸君は多くの専門職人に見られがちな偏狭、偏見、激情から逃れることが出来ないでしょう」。若き教育者の揺るがざる信念である。

後年「大学改革論」の中で、氏は論じている。「現代の技術教育の最大の欠陥のひとつは、学生にきちんとした一般教養を与えていないと思われることである。単に技術的に教育された人間は、概して貧困な人間性の見本のようになって彼らの主要な関心は小さな領域とカネを稼ぐことに限られている。仕事を離れた真の知的な喜びを知らないように見えるし、知的にも道徳的にも堕落しがちである」。1世紀も前のスコットランド人土木技術者(教育者)のエンジニア教育論は、自らの反省に立脚していると思われ、説得力に富む。いな、今日においてもなおその問題提起は鋭く教育者に解決を迫っているといえる。氏のエンジニア教育論の究極には、人間の全的発達という人間性そのものの教育が見据えられているからである。               

内務技師・宮本武之輔(企画院次長)

<天才級技術官僚>宮本武之輔について

「君たち学生は工学の知識を吸収しただけでは知識人ではないし、実社会に出ても役に立たない。人間として未熟である。政治学、法律学、経済学、文学、西洋哲学、歴史学、物理学、化学、なんでも貪欲に学ぶのだ。若いうちに学んで鍛えるのだ」「すべて信念は自覚から生まれ、自覚は思索から養われる。思索のない人生は一種の牢獄である」

内務省(国土交通省前身)の技術官僚・宮本武之輔(1892~1941)は、母校・東京帝大土木工学科(河川工学)教授を兼務した。彼が講義の中で語った「ことば」である。博覧強記と現場での経験に裏打ちされた知的刺激に満ちた「ことば」である。彼の群を抜いた知性、見識、行動力、情誼(じょうぎ)の厚さ、そして何よりも民衆を思う気持ちはこうした天才性から生まれた。

武之輔は明治25(1892)年、愛媛県温泉郡與居(ごご)島村(現松山市由良町)の裕福な家庭に生まれた。神童と呼ばれた彼は父親が事業に失敗したため中学校(旧制、以下同じ)への進学を断念せざるを得なくなる。輸送船の見習い船員となって家計を助けた。地元の篤志家宮田兵吉は武之輔の才能を惜しみ、学費や生活費の援助を申し出て、勉学の道に進むよう働きかけた。

勉学の道が開けた武之輔は、東京に出て私立錦城中学校に編入学し、文学書や哲学書などを乱読し小説を書いた。文学青年であった。一時期、作家たらんと決意した。が、家族の反対で挫折した。成績はここでも常にトップクラスで、首席で卒業した。中学時代から書き始めた日記は49歳で急逝するまで続けられる。戦前の知識人とりわけ技術官僚の人生をうかがう上でこれに勝る文献はない。最難関の第一高校に成績優秀なため無試験で入学する。同級生には後年作家として活躍する芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らがいた。青年時代の一時期とはいえ、彼が作家を目指し内外の文学書を読破したことは彼の柔軟な発想の基礎を築いた。幅広い知性や想像力を養った。

東京帝大土木工学科に進んだ彼は、日記に記している。「民のための土木技術」。「研究教育だけに没頭する技術者にはなりたくない。現場に立って後世に残る土木事業を手がけたい」。彼の決意は固かった。主任教授広井勇からの影響は多大であった。大正6(1917)年、東京帝大土木工学科を首席で卒業し恩賜の銀時計を授けられて、内務省に入省した。

技術者差別の「壁」打破

内務省入省後、彼は利根川や荒川の河川改修に従事した。帝都東京を洪水から守る一大事業・荒川放水路工事には、荒川下流の水門建設工事の責任者として参加する。内務技師として研鑽の日々である。ここで上司の主任技師青山士と巡り会ったことは武之輔の技術者人生に大きな影響を与えた。武之輔は現場にあってもコンクリート工法の研究を進め、その後の欧米への留学での研究成果もあって昭和3年(1928)に博士号が授与される。
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内務省入省以来、彼にはふつふつとして湧き上がる闘志があった。彼は政府部内の「技官冷遇」の「壁」の打破に生涯を捧げたと言っていい。政府首脳部から自重を求められたが、耳を貸さなかった。大正9年(1920)、政府各省の青年技術官僚を集めて「日本工人倶楽部(クラブ)」を発足させるなど、技術者の地位向上、差別の「壁」打破のため進んで先頭に立った。しかしながら、事務系官僚を中核とする政府部内の「壁」は厚かった。

民のふところに飛び込む

昭和2年(1927)、内務省土木局は大事故に震え上がった。信濃川の大河津分水(おおこうづぶんすい)自在堰が陥没し、堰の機能は完全にマヒした。信濃川本川の河水が枯渇した。完成からわずか5年後の非常事態である。田植えの時期である。流域農民は激怒して抗議に立ち上がった。堰の修復工事に投入されたのが36歳の若きエース技師宮本である。彼は土木技術者を「民の幸福を実現する職業」と信じ、土木技術者は「民のふところに飛び込む勇気がなければならない」と自身に言い聞かせた。 

彼は悲壮な決意でのぞみ、設計施工をすべて手掛けた。酷寒の真冬も猛暑の真夏も先頭に立って働いた。作業歌を自作して労働者と共に歌った。この間、直属の上司青山士と恩師広井勇の激励を心の支えとした。彼は工事の進み具合を地元紙などを通じて積極広報したのも当時としては異例のことであり、「公共事業は民のためにある」との確固たる信念がうかがえる。

心血を注いで大河津分水補修工事を完成させた後、武之輔は本省に戻り、第一技術課に籍を置き,全国の災害復旧や補助河川改修の指導にあたった。昭和11年(1936)、河川改修等の経験と研究の成果を『治水工学』として発表した.この名著は,治水工学を体系的にまとめた戦前における河川工学の決定版である。昭和13年(1938)、興亜院創設と同時にその技術部の部長となった。中国との戦闘が泥沼化する中、昭和16年(1941)、企画院次長に昇進し、名実ともに最高の技術官僚となった。戦時下の対中国政策立案にあたる最高責任者の一人となった。だが、彼の侵略戦争に加担する苦悩は深かった。そしてついに、彼の人生は運命により断たれる。

日本が無謀な太平洋戦争に突入した直後の昭和16年12月、急性肺炎のため国会内の内務省政府委員室で倒れ、急逝した。文才に秀でた武之輔は49歳という長くはない人生で20冊余りの学術書やエッセイ集を残した。「河川工学」「技術者の道」など名著も少なくない。作家菊池寛は、そのまれにみる文才を「官僚離れしている」と絶賛した。武之輔は「土木工学」以前に英知に基づく心の通った「人間学」を目指したのである。

(参考文献:土木学会図書館文献、拙書「評伝 工人宮本武之輔の生涯」、筑波大学付属図書資料)

(つづく)

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