再説:幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順 幕末の殖産興業と軍隊近代化を図った悲劇の幕臣

勘定奉行・小栗上野介忠順像(横須賀・ヴェルニー公園、提供:高崎氏)

「開国派」小栗の海軍策

名門幕臣の小栗忠順(ただまさ、1827~1868)は、万延元年(1860)幕府遣米使節首脳として太平洋を渡り、幕府要人として初めてアメリカのブキャナン大統領に謁見して通商条約批准書を交換した。その後同国政府高官らと会談し、さらには大西洋・インド洋を経て世界周航を果たした。このことこそ、小栗に欧米文明の優位性に目を開かせ、外国奉行・勘定奉行・軍艦奉行などの要職を歴任させ、危機的状況の幕府の行財政改革、軍制改革、殖産興業育成への決意を促すものとなった。この連載で1度小栗には触れているが、再度別の功績を説明したい。

幕末・維新とメディア事情それに小栗忠順
http://www.risktaisaku.com/articles/-/3746

国内では、井伊大老を血祭りにあげた「桜田門外の変」の余勢を駆った攘夷の嵐が吹き荒れ、開国を唱えるものはあたかも国賊扱いされる有様だった。「開国論者」小栗の首を狙う者すらいたのである。彼らの中には、欧米列強のアジア戦略の脅威など理解できる者はいないのである。

幸いにも、駐日フランス公使レオン・ロッシュとその懐刀(ふところがたな)のメルメ・デ・カションの協力が得られたことは何よりのことであった。まず着手したのが、横浜と横須賀に大規模な製鉄所(造船所)を建設する計画だった。海防を目指したものであることは言うまでもない。特に横須賀製鉄所は、フランスの海軍技師ヴェルニーの指導の下に、フランスのツーロン造船所の3分の2の規模に設計し、工期4年間、総工費240万ドル(今日の約2400億円に相当か)という壮大な計画であった。

小栗と盟友・栗本鋤雲(じょうん)の間で、この壮大な構想が話し合われた時、鋤雲が「巨額の資金をどう調達するのか」と尋ねた。小栗は笑って答えた。

「今の幕府の財政はまったく<やりくり身上>で、この事業をやらぬからといって、その分をどこかで使えるというものでもない。どうしても必要な製鉄所を造るのだといえば他の冗費を削る口実にもなる。それに、いよいよこれができれば、もしも幕府がどこかへ身売りをするときになっても、<土蔵付きの売家>だといばることもできょうさ」

慶応元年(1865)に開設されたこの近代海軍造船所は、明治政府に引き継がれて横須賀海軍工廠となった。小栗の残した「大いなる遺産」を再考する。

横須賀製鉄所の巨額資金の捻出

渡米した小栗は米海軍造船所(ネイビー・ヤード)を視察した体験からも、大造船所の建設を強く望んだ。何とか実現できないものかと思い詰めていると、フランス公使ロッシュは「ヴェルニーという優秀な技術者が上海に来ています。清国から砲艦の建造を頼まれて来たのですが、それが出来上がったので、間もなく帰国することになっています。今横浜に碇泊している我が国の軍艦セミラミス号はツーロン造船所で建造したもので、すでに8年も航海に従事していいますが、全然故障のない堅牢無比(けんろうむひ)な軍艦です。これはゼヌデールという技術者が主任になって建造したのでありますが、ヴェルニーはゼヌデールに劣らない優秀な若い技術者です。ひとつ彼を呼んで意見を聞き、計画を立てさせてみませんか」と勧めた。

小栗は大いに意を動かす。老中らを説き承諾を得た上で、ロッシュに改めて頼んでヴェルニーを招聘してもらうことにした。ヴェルニーは30歳前のやせて丈の高い近視の眼鏡をかけた髭の薄い男であった。人物や技術力は確かなものがあった。

ヴェルニーは来日して、幕府側の要望を聞いた。建設候補地を横須賀に見立てて、計画を立て始めた。
                 ◇
ロッシュは、計画の実現には巨額な資金のかかることを予想していた。「そこで前もって小栗の教育にかかった」と幕臣となった福沢諭吉の「談話」にある。ロッシュは微恙(びよう)に侵されたと称して(病名リュウマチ)熱海に湯治に出かけ逗留を続けていた。ある時小栗の許に使いを走らせた。

「江戸に浅田宗伯という幕府侍医の名医がいると聞く。ぜひ診察を請いたい。願わくばお力をもってドクトル浅田を熱海に寄こしていただきたい」

浅田は小栗の主治医でもある。ロッシュにはある狙いがあった。浅田は漢方医学の名誉と喜んで快諾し熱海に赴く。熱海に足を運んで治癒に努めている間に、ロッシュは軍事上造船所がこれからの日本に必要であると説いた。浅田を通じて小栗に説こうと意図だった。しばらくして、ヴェルニーの見込書が出来た。総工費が240万ドルもかかるというのだ。さすがの小栗も驚いた。

ところがロッシュは資金調達の方法まで考えてくれた。生糸の専売である。フランスは欧米一の絹織物国家であったので、日本の生糸を幕府が統制して、一手にフランスに輸出することにすれば、240万ドルの資金は4年くらいで十分補えるというのである。そのために日仏合弁の貿易会社(コムパニイ)を設立する、という。(小栗は「貿易会社(コムパニイ)」という民間資本の会社の重要性を滞米中に理解している)。

日本初の大型造船所建設が成功すれば、ロッシュはフランスに大勲功を立てることになる。造船所建設に必要な資材を納入する商社からコミッション(委託の手数料)も寄せられるであろう。240万ドルという大事業だから、生半可なコミッションの額ではない。貿易商社の設置が決まれば、そちらからも手数料も期待できる。小栗はロッシュが民間資本導入の計算もしていると知って大いに乗り気になった。

小栗は老中らに説得して回った。貿易商社の何たるかについて知識のない老中らはただただ聞き役に回るのみであった。ついに幕府は造船所を建てることに決定した。

ヴェルニーは年俸1万ドル(今日の約1億円)で幕府が雇うことになった。契約は、内外の反対が起こることが予想されるので、一切秘密のうちに運ばれた。だが、契約が成立して間もなくこれがおおやけになると猛然とした反対論が起こった。

「今その一、二をあぐれば、海軍部内の者は政府の趣旨の何たるかを解せず、そのこれを仏国に委(ゆだ)ぬるを曉々(ぎょうぎょう)し、他の局の論者は無用不急のことなりとい嗷々(ごうごう)し、大計にくらき儒者、武人などの類は口を極めて罵詈(ばり)した」と栗本は書いている。すでに契約成立している。反対してもどうにもならなかったのではある。こうまで物議が沸騰すれば誰かに責任を取らせなければならない。小栗が免職された。

フランス人技師・ヴェルニー像(横須賀・ヴェルニー公園、提供:高崎氏)

幕府の兵制改革

再度の免職ではあったが、免職は表面的なことだけで、依然小栗は幕府の要務に関係していた。「匏菴十種(ほうあんじゅっしゅ)」(栗本)にこうある。元治2年(慶応元年、1865)3月の頃と記憶している。ある日、小栗上野介(文久2年・1862から上野介)と浅野美作守(みまさかのかみ)とが、自分の横浜の役宅に訪ねて来た。挨拶が終わると、2人は語りだした。

「公儀(幕府)で、旧来の軍制を廃止して、洋式の歩・騎・砲の3兵に編成しなおすことにしたのは、文久2年(1862)のことで、以来4年にもなるが、一向に埒(らち)が明かない。騎兵に馬術を教えるだけ、歩兵・砲兵は『訳本三兵タクチイキ』と首っ引きで、わからないところは蘭学者高畠五郎や軍学者大鳥圭介らに問い合わせたり、推量でやっている有様で、とうてい三兵などとは言えない。われわれ両人は適当な国に頼んで、陸軍教師を迎えて、士官・兵卒を訓練してもらって、しっかりした兵式を定めたいと相談して、ご意見をうかがいにまいった」。

栗本は幕府陸軍の内実を聞いて驚きながら言う。

「拙者が箱館にいます頃、英・仏軍が中国(清)を相手に戦ったことがあります。その時、英国は北海道で蝦夷馬(えぞうま)を多数買い込み、尾を切って軍馬として連れて行きましたので、印象深く覚えています。その後、その数年前に英・仏両国が連合してロシアと戦ってセバストポールを陥れた話を聞きましたので、箱館居留のロシア人に、この両戦争の話を聞きますと、清でも、セバストポールでも、フランス兵の方が勇敢で、いつも先頭を切るのはフランス兵、そのあとに確実に占領するのは英国兵で、英国兵なしのフランス兵だけでは勝利を確保出来ず、フランス兵なしの英国兵だけは敵を破ることは出来ないと、こう語りました。その後、メルメ・デ・カションと交わるようになって、いろいろ各国のことを聞きますと、カションは戦争史を説いて、海軍は英国が強く、陸軍はフランスが強いと結論しました。ご両所が軍事にまるで素人(しろうと)である拙者にただ今のようなことをご相談なさるのは、定めてフランス公使に陸軍教師を雇うことを頼んでくれと仰せられるのでしょう」

「仰せの通りです。骨折っていただきたい」

「引き受けました。ご一緒に公使館へまいりましょう」

しかし小栗ら二人は栗本に一任した。このことを、栗本は外国人に面会することは世間の物議をかもし、一身に危険が及んだり、やろうとする計画も妨害されたりする恐れがあったからであると説明している。

翌日、栗本はフランス公使館に行ってロッシュに会い、陸軍教師の招聘のことを頼んだ。ロッシュは喜んで承諾して、幕府からフランス政府に文書をもって正式に依頼してもらいたい、必ず自分が周旋するであろうと約した。

栗本は小栗ら二人に知らせた。二人は陸軍総裁の老中・松前伊豆守崇広(たかひろ)に上申し、ロッシュの指示した通り文書をもって依頼した。一切は極秘のうちに運ばれた。「世間なほ誰も知る者あらざりき」と、栗本は記している。
陸軍教師が来日するまでにフランス語を覚えさせておかなければ教育にならない。フランス語学校を横浜に開くことになった。校長はカション、助手として公使館の護衛騎兵の騎兵曹長ビュランが務めた。1期生の生徒の中に、小栗の養子又一、栗本の息子貞次郎がいる。

小栗には八面六臂の活躍が求められた。資金の工面ばかりか、造船所の建設、兵制改革、その兵制改革のためにフランス語学校まで設けなければならないのである。

フランスから陸軍士官を招聘ことは、小栗が免職中に実施したのだが、5月になると再度勘定奉行勝手方に復職している。幕府財政の困窮は、小栗以外には処理できる者がいなかった。中でも、新しく取り掛かった横須賀製鉄所の建造といい、陸軍士官を招聘して軍制改革の実を上げることといい、小栗が主唱し彼が中心となって始めたのだ。形式的な免職だったとすれば、復職は当然のことであった。

復職の翌月・閏5月5日に、柴田日向守(ひゅうがのかみ)が、水品楽太郎、富田達三、小花作之助、翻訳官福地源一郎、塩田三郎、定役岡田摂蔵の6人を随員として、横浜を出港して、フランスに向かった。使命は、製鉄所建設の用務、これと関連して生糸専売のための貿易商社設置、陸軍士官招聘の件などであった。

米軍海軍基地となった横須賀造船所跡地(現状、提供:高崎氏)

横須賀工場の着工と資金難          

この慶応元年3月、横須賀工場の鍬入れ式を挙行して敷地の整地にかかり、すっかり出来上がった5月、ヴェルニーが多数のフランス人職工を連れて到着した。資材も相次いで到着する。建設にかかった。

ところが、意外な外交問題が起こった。日仏合弁の生糸専門の貿易商社をつくるということがパリ財界に来ている公使らに訓告があったのだろう。フランスを除く外交団が最も強硬な態度で幕府に抗議したのである。

「各国と通商条約を結びながら、ある産物を特定の国にだけ輸出するのは万国公法違反である」。

幕府首脳は驚き狼狽した。小栗はその渦中にあった。元来240万ドルという巨額な費用のかかる横須賀製鉄所建設にあえて踏み切ったのは、生糸専売の商社からの利益を当てにしていたからのことである。幕府では各方面に了解を求めようとした。だが、とても理解を得られなかった。遂に商社計画はご破算となった。

幕閣、中でも小栗は苦境に陥った。幕府は長州再征にかかっており、将軍家茂は大坂まで旗を進めている。この軍事費だけでも財政は四苦八苦だ。その他に240万ドルなどという大金は捻出できない。ここで救いの手を差し伸べたのが、ロッシュだ。ロッシュは「フランス政府が仲介して、フランスのソサエテ・ゼネラルから600万ドル(今日の約600億円)が借りられるようにして差し上げた」と申し入れた。

その上、ロッシュは言う。

「長州のことは徳川家にとって大厄難でありますが、これを転じて大幸となす法があります。この度のことを機会にまず長州を倒し、次に薩摩を倒しなさるがよい。この両藩がなければ、天下に徳川家に反抗するものはありませんから、諸藩を廃止して、徳川家を中心とする中央集権郡県の制度としなさい。世界の列強は現在では皆この制度になっています。ついては600万ドルのほかに、軍艦や兵器も年賦でご用立てしましょう」。

「地獄に仏」だった。ことは政事総裁の一橋慶喜、老中、勘定奉行小栗、その他数人の幕閣だけが知っているのみで「秘中の秘」(極秘)として運ばれた。
               ◇
この3年後、最後の将軍・徳川慶喜が薩長閥の新政府へ恭順を表明すると、小栗はこれに猛然と反対し辞職した。その後、隠棲の地・上州権田村(現群馬県高崎市)で新政府軍により無残にも斬首された。何の取り調べもない問答無用の処刑であった。英才の哀れな末路であった。享年42歳。

参考文献:「小栗上野介忠順と明治維新」(高橋敏)、「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編)、筑波大学附属図書館史料。

(つづく)

 

 

© 株式会社新建新聞社