82歳で死去の元広島投手・鵜狩道夫氏 長嶋茂雄「幻の本塁打」事件の当事者

鵜狩道夫氏の生涯成績

西鉄では稲尾らの陰に隠れ出場機会に恵まれず

 西鉄、広島で55勝を挙げた右腕投手、鵜狩道夫氏が8月27日に死去した。82歳だった。

 鵜狩氏は1936年7月14日生まれ、長嶋茂雄、野村克也の1学年下。鹿児島県立伊集院高校、鹿児島市交通局を経て、1955年に西鉄ライオンズに入団。当時の鹿児島市交通局は、九州屈指の強豪チームであり、南海で投手として活躍した野母得見、のち交通局の監督となる入部久男(巨人)などのプロ選手を輩出。鵜狩は鹿児島市交通局のエースとして九州では名前の知られた投手だった。

 1年目は1軍昇格はなく、2年目の1956年に1軍で初めて登板したが、この年の西鉄には争奪戦の末に獲得した畑隆幸に加え、稲尾和久という大物新人投手が入団。特に稲尾はいきなり21勝するなど大活躍、さらに西村、島原、河村と有力投手がひしめいており、鵜狩の出場機会は少なかった。

 しかし179センチと当時としては大型で、練習では剛速球を投げて大器の評価が高かった。

 鵜狩は翌1957年には救援を中心に18試合に投げ、防御率2.41と好投を見せたが、このオフに広島に移籍が決まった。

広島移籍で開花、ローテーションの一角に

 1958年、鵜狩はチーム最多の23試合に先発し、6勝を挙げる。弱小広島にあっては主力投手の一人となった。

 この年の9月19日の後楽園球場での巨人戦、先発した鵜狩は、1-1の5回、大型ルーキーとして人気絶頂の長嶋茂雄に勝ち越しのソロホームランを浴びる。しかし広島の一塁手、藤井弘は長嶋が一塁ベースを踏んでいなかったとアピール、竹元勝雄一塁塁審は一塁空過を認めてアウトを宣告した。長嶋のこの打席は「一塁ゴロ」となり、鵜狩は味方の援護もあって勝利投手となった。

 これは大きな話題となり、翌日のスポーツ紙には投手鵜狩の名前に引っかけて「長嶋、うっかり」という見出しが躍った(実際の鵜狩の読みは「うがり」)。

 この長嶋の「幻の本塁打」は、のちに大きな意味を持つことになる。この年の長嶋の本塁打数は29本。新人記録を更新したが、新人初の30本には届かなかった(翌1959年に桑田武が31本塁打を記録)。また長嶋はこの年、37盗塁、打率.305をマーク。「幻の本塁打」が幻でなければ、これまで誰も達成していない「新人でのトリプルスリー」を記録していたはずだった。

 長嶋茂雄は抗議をせず、「完全に僕の失敗でした。ベースを踏んだかどうかははっきり言って自信がなかった」とミスを認めた。

 鵜狩は翌1959年には11勝、1965年にも10勝を挙げ、広島の主力投手として10シーズンにわたってマウンドに上がった。最終年の1967年にはウェスタン・リーグ近鉄戦で完全試合を記録している。

 通算成績は401試合55勝72敗 1312回、515奪三振、防御率3.11だった。

 背番号「17」は、その後、山根和夫、川端順、大竹寛など主力投手が引き継ぎ、現在は岡田明丈がつけている。引退後は郷里鹿児島に帰り、運動用具店を営んだ。平成最後の年に、昭和プロ野球の名脇役がまた1人世を去った。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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