中日、阪急で活躍した古川清蔵氏が死去 96歳、本塁打王2度獲得の強打者

古川清蔵氏の通算成績

俊足でパンチ力のある捕手・外野手

 10月17日、戦前は名古屋軍(現中日)、戦後は阪急の外野手として活躍し、2度の本塁打王にも輝いた古川清蔵氏が死去した。96歳だった。

 古川氏は1922年3月4日生まれ。川上哲治より2学年下。鹿児島商業学校、八幡製鐵を経て、1941年職業野球の名古屋軍に入団。職業野球は5年前に創立され、1938年までは2シーズン制だったが、1939年に1シーズン制に移行して3年目だった。

 またこの年の12月8日には真珠湾攻撃が起こり、太平洋戦争が始まった。当時の若者の多くは「いずれは応召されて戦地に赴くことになるのだから、それまでは好きな野球を思い切りやりたい」と職業野球に身を投じた。

 古川は170センチ65キロと小柄だったが、俊足で打撃もパンチ力があり、1年目から38試合に出場。チームメイトにはのちに野球殿堂入りする強打者・西沢道夫(戦前は投手)、西沢とともに中日の永久欠番になった捕手、投手の二刀流の服部受弘、草創期のプロ野球を代表する名一塁手で大沢啓二元日本ハム監督の兄でもある大沢清などがいた。

 この時期には太平洋戦争が激化し、バットやボールなどの用具類も窮乏、古いボールを使いまわしたこともあり、極端な投高打低が進行していた。古川は翌1942年には捕手に転向、8本塁打で本塁打王を獲得。この年、7月18日の後楽園球場での阪急戦で記録された西沢道夫の史上9人目のノーヒットノーランの際には「5番・捕手」として大記録を演出している。翌1943年には再び外野手となり、同じ中日の外野手である岩本章、加藤正二と4本塁打の同数でタイトルを分け合った。同一チームの選手3人が本塁打王になったのは、NPB史上でこの一例だけ。

 古川は以後も名古屋軍の中軸打者として活躍したが、1942年オフに応召してチームを離れる。しかし、幸いにも戦死を免れて終戦の1945年に復員した。

戦後最初のプロ野球、東西対抗戦にフル出場

 戦後最初のプロ野球の試合である、1945年10月23日の日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦には、東軍の「1番・中堅」で4試合にフル出場した。

 翌年からプロ野球は再開したが、古川は名古屋軍から改称した中部日本に復帰し、外野手として活躍。翌1947年、チームは中日ドラゴンズとなるが、このオフに赤嶺昌志代表と球団経営陣の間で内紛が起こり、古川は11人のチームメイトともに退団(赤嶺旋風)し、阪急ブレーブスに入団した。

 阪急に入団してからも古川は衰えを知らず、12年にわたって外野手としてプレーし、このうち8年で規定打席に到達している。またタイトルこそ取らなかったが、1950年の56盗塁をはじめ30盗塁以上を5回記録している。

 1953年8月30日、西宮球場での南海とのダブルヘッダー2試合目は、延長18回という長い試合になったが、「5番・中堅」で先発した古川は9打数7安打を記録。延長戦のため参考記録となったが、1試合7安打は1949年11月19日の大陽戦の大下弘と古川の2人しか記録していない。

 1959年、37歳で引退した。通算成績は1698試合5715打数1419安打97本塁打617打点370盗塁、打率.248だった。

引退後は競馬評論家に転向

 引退後は競馬評論家となり、スポーツ紙に長年予想コラムを執筆。穴狙いのファンに根強い人気があった。

 1995年1月の阪神大震災で被災したが、以後も健在。戦前の職業野球を知る野球人としては、1917年生まれの小田野柏氏(阪急、西鉄など)が最高齢だったが、小田野氏が2014年に97歳で死去してからは古川氏が最高齢となっていた。

 古川氏の死去で、判明している限りでは戦前を知る野球人はすべて鬼籍に入ったことになる。最晩年まで、東西対抗試合の話をテレビで披露するなど「職業野球の生き証人」として野球史に貢献した。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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