現役引退のペドロサが明かす胸中。「いつか必ずタイトルを獲れると信じていた」/特別インタビュー前編

 2018年シーズンをもって現役を引退したMotoGPライダー、ダニ・ペドロサ。18年にわたりロードレース世界選手権の第一線で戦い続けたペドロサは、最後のレースを数戦後に控え、どんな心境でいたのか──。アルベルト・プーチとのエピソードやメカニックの話を交え、現役を退く決断を下したペドロサに、モーターサイクルジャーナリストの富樫ヨーコ氏が迫った。なお、このインタビューはMotoGP日本GPレースウイーク前に行われたものであることを付け加えておく。
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「ダニとダニエルでは、どちらがいいと思う?日本人はどちらが呼びやすい?」

 ダニ・ペドロサのマネージャー、アルベルト・プーチが当時ホンダの仕事をしていた私に尋ねてきた。2006年1月23日。マレーシアのセパンでオフテストが始まろうとしていたときのこと。

 それまでペドロサの名前はダニとダニエルの両方の表記が使われていたので、MotoGPに昇格するにあたってどちらかに統一してほしいとドルナが要請してきたのだ。前年のモトコース(英国のMotoGP年鑑)で250ccチャンピオンは“ダニエル・ペドロサ”と表記されているが、ランキング表下の写真でペドロサが着ているチャンピオンTシャツには“ダニ・ペドロサ”と書かれている。

 セパンでの暑い一日。私はプーチに「日本でもダニの方が呼びやすいと思う」と答えた。そう言い終わるか終わらないうちに、せっかちなプーチは「OK」と言うと急いでドルナの事務所へ向かって歩き出した。あの日から13年。2018年の7月、ドイツGPでペドロサはMotoGPレースからの引退を表明した。

■レースを辞めるとき

「そうだね。名前を統一しようという話が出たときのことは覚えているよ。当時も家族や友達、ファンにはダニと呼ばれていたけど、学校やその他のフォーマルな場ではダニエルと呼ばれていたんだ」

 2018年日本GP。レースウイークに入る直前、ダニ・ペドロサはもてぎで単独インタビューに答えてくれた。2006年のことを話していたときには懐かしそうな表情を浮かべていたペドロサだが、引退のことを尋ねると、ちょっと寂しそうで神妙な顔つきに変わった。

「今はすごく奇妙な気分だ。今までに感じたことのないフィーリングだ。バイクに乗るのもレースをするのも好きだけど、レースを辞める日が近いことは自分でもわかっていた」

 6月にホンダが“来季はダニ・ペドロサと契約しない”と発表したあと、ペドロサがヤマハの新規サテライトチームと交渉しているという噂も流れていた。しかし、どうやらその話はまとまらなかったようである。

「もちろんほかのチームで走るという選択肢も検討したけど、やっぱりレースを完全に辞めることにした。モタードやスーパーバイクにも出るつもりはない」

 ペドロサが他メーカーのマシンに乗ってどんな走りをするのか見てみたいと望んでいた人は多い。同時にペドロサが慣れないマシンで苦戦する姿は見たくない、と考えていたファンも大勢いただろう。

2017年バレンシアGPが、ペドロサがMotoGPで挙げた最後の勝利となった

2017年バレンシアGPが、ペドロサがMotoGPで挙げた最後の勝利となった

 レースにはもう出場しない。ではテストライダーになる可能性はどうなのか。

「2019年以降のことはまだ何も決まっていない。来年以降、テストライダーになるかどうかもまだ決まっていない。今は残りのレースを1戦1戦全力で戦っていくだけだ。ここもてぎは大好きなコースだし、日本には僕のファンが大勢いるから優勝を目指したい。僕も日本のファンは大好きなんだよ」

「テストライダーになるかどうかはまだ決まっていない」とペドロサはちょっと口ごもった。2019年と2020年にKTMのテストライダーになるという発表があったのは翌週のオーストラリアGPのとき。もてぎの段階でも当然合意ができていたはずなのだが、正式発表までは口外できないというのは当然のことだ。

 ペドロサのKTM入りの噂は以前から流れていた。それは250cc時代から2014年まで9年間ペドロサのチーフメカニックを務めたマイク・レイトナーが2015年からKTMのMotoGPプロジェクトリーダーとなっていたほか、レイトナーと一緒にペドロサの元で働いていたメカニックが何人もKTMに移籍していたからだ。オーストラリアで発表になったKTMのプレスリリースにはレイトナーのコメントも載っていた。

『ダニと契約できてすごくうれしい。MotoGPにおけるダニの経験と才能があればKTMのマシン開発も飛躍的に進むだろう。何しろダニは3回世界チャンピオンになっているし、MotoGPカテゴリーでも3回ランキング2位になっている強いライダーだから』

■秘蔵っ子登場

 4歳のときに初めてバイクに乗り、9歳でミニバイクレースを始めたというペドロサは、1999年にアルベルト・プーチが始めたテレフォニカ・モビスター・ジュニアチームに加わり、2001年にロードレース世界選手権125ccクラスにデビューした。その後、2003年に125cc世界チャンピオンを獲得し、2004年と2005年に250ccタイトルを連覇したのだ。

 そしてついに満を持して2006年にペドロサは“ホンダの秘蔵っ子”としてワークスチームのレプソルホンダ入りした。その間、いつも傍らにはプーチの姿があったのである。

 当時のプーチはペドロサに、レースの戦術を伝授したり、ライディングのアドバイスを与えるほかにもマスコミとの接し方、パドックでほかのライダーとつきあう方法などすべてに関してアドバイスしていたと言われている。

 ペドロサのMotoGPデビューは華々しかった。2006年の開幕戦スペインGP(へレス)で一時トップを走行し、関係者や観客を沸かせたペドロサ。結果はロリス・カピロッシ(ドゥカティ)に続いて2位だったが、ペドロサが近いうちに優勝するだろうと期待する者は多かった。そしてデビュー4戦目の中国GPで初優勝し、視察に訪れていた福井威夫ホンダ社長(当時)とともに表彰台に上がったのだ。

「13年間ダニと一緒に仕事をしていて、一番うれしかったのは1年目の中国GPで初優勝したときです」と語っているのはペドロサのメカニック、小合将史氏だ。「(MotoGPクラス)1年目の2006年は最後から2番目のポルトガルGPまでチャンピオンの可能性がありました。1年目のマシンが990ccじゃなくて800ccだったら初年度にタイトルを獲れていたかもしれません。それでも僕はダニが3年以内には絶対にチャンピオンになれると信じていました」と小合氏。 しかしこの年、ペドロサはポルトガルGPでランキング首位につけていたチームメイトのニッキー・ヘイデンと接触し、ふたりそろって転倒してしまう。珍しく怒りをあらわにしてコースサイドでペドロサにつかみかかりそうになったヘイデン。そのときのことをペドロサはこう語った。「あの時点では僕にもチャンピオンの可能性があったから全力で攻めていた。でも、ニッキーにぶつかってしまった。レースのあとでニッキーのところに謝りに行った。ニッキーにはまだチャンピオンの可能性が残っていた。ホンダにとっても久しぶりのタイトルがかかっていたから最終戦は重要なレースだった」 最終戦バレンシアGPでペドロサは“さりげなく”ヘイデンを前に行かせ、アシストした。タイトル争いをしていたヤマハのバレンティーノ・ロッシが転倒したこともあり、ヘイデンがチャンピオンに輝いた。「あの年、僕はチャンピオンになれなかったけど、いつか必ず獲れると信じていた。実際に2012年にはもう少しで獲れるところだったんだ」とペドロサ。## ■痛恨のサンマリノGP、そしてロレンソとの確執
 今までで一番悔しかったレースはどれか、と尋ねるとペドロサは「2012年のサンマリノGP(ミサノ)だ」と即答した。

 第13戦サンマリノGP直前まで、ランキング首位のホルヘ・ロレンソに13点差で2位につけていたペドロサ。シーズン後半はアラゴン、もてぎ、セパン、バレンシアと得意なサーキットが多かったのでロレンソを逆転する可能性は大きかった。

「ミサノではポール(ポジション)からのスタートだった。でもスタート時に他車のエンジンがストールしてスタートディレイになってしまった。再スタートまでどれぐらい時間があるのかもわからなかった。そのうち僕のマシンにトラブル(タイヤウオーマーが外れなくなった)が発生し、最後尾からのスタートになったんだ」

 最後尾から追い上げていたペドロサはエクトル・バルベラのクラッシュに巻き込まれて転倒。痛恨のノーポイントに終わってしまった。そして、結局ミサノでのノーポイントが大きく響き、ロレンソに続いてランキング2位で2012年シーズンを終えたのだった。

 では、今までで一番うれしかったレースはどれか。

「いくつもあって一つ挙げるのは難しいけど、強いて言えば2004年のウエルコム(南アフリカGP)だ。250ccのデビュー戦だった」

2004年南アフリカGP。オフシーズンの手術を乗り越え、250ccクラスデビュー戦で見事優勝

 2003年、ペドロサは125ccチャンピオンを決めた直後のオーストラリアGPで転倒し、両足首を骨折した。手術を受けたが、シーズンオフに全く250ccマシンに乗れなかったペドロサは、ぶっつけ本番で開幕戦南アフリカGPに臨み、優勝したのだった。

「あのときは信じられない気分で本当にうれしかったのを覚えている」とペドロサ。

「あと、MotoGPレースで一番印象に残っているのは2012年のブルノ(チェコGP)だ。あのときは最終ラップまでロレンソとすごいバトルをして競り勝った」

 ロレンソとペドロサは2005年のドイツGPで接触して以来、長期間にわたって険悪な関係にあった。眼も合わせず、握手もしない。敵対心を剥き出しにしたライバル関係である。

「僕らにはみんな、野望があるから、対立するというのはノーマルなことだ。でも、僕らがあまりにも強いライバル意識を見せていたから、スペイン国王が心配して僕とホルヘを仲裁してくれたんだ」

 スペイン国王ファンカルロス一世はモータースポーツ、なかでも特にオートバイレースが大好きでペドロサとロレンソの対立に関しても詳しく知っており、心を痛めていたのだろう。そして、“ふたりとも私の国の民であるのに、憎みあっていてもしょうがない、ここはひとつ私が何とかしよう”と考えたに違いない。

 2008年のスペインGPで国王は、表彰台に上がったペドロサ(優勝)とロレンソ(3位)の手を取り、握手をうながしたのだった。

「あのとき、国王が具体的になんて言ったのかは覚えていないけど、ジェスチャーで僕とホルヘは国王の考えを理解したんだ。その後、僕らはお互いを理解するようになった。心を開いて、考え方の違いを尊重するようになった。お互いに対する闘争心とモチベーションは維持しつつ、相手に対するリスペクトを持つようになったんだ」

*ライディングスポーツ2019年1月号掲載

■インタビュー後編へ続く

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