KEITH(ARB)「俺自身がARBファンの一人だから、ARBの楽曲を叩き続けたい」

ブルー・コメッツに押しかけてバンドボーイを志願

──出身は秋田県の男鹿市ですよね。

KEITH:うん。なまはげの街。生まれたのは1952年2月6日。

──ごきょうだいは?

KEITH:二人兄弟で、下に弟がいる。

──どんな子どもだったんですか。

KEITH:あっち行ったりこっち行ったり、落ち着きがなかったね。親戚じゅうを遊びに歩いたりして。とにかくしょっちゅうどこかに出歩いてはケガをしてるような子どもだった。チャンバラとかよくやってたね。

──音楽に興味を抱いたのはいつ頃でしたか。

KEITH:グループ・サウンズが出てきた中学の頃。テレビでタイガースやテンプターズ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツなんかを見て、「これは女の子にモテるぞ」と思って(笑)。それで自分でもバンドをやることにして、親にエレキ・ギターを買ってもらった。

──高価な楽器を買ってもらえるような裕福な家庭だったんですか。

KEITH:いや、ごく普通の家庭なんだけど、無理やりお願いして。ちっちゃいアンプと一緒に買ってもらった。

──初めて触れた楽器がドラムではなくギターとは意外ですね。

KEITH:当時の花形だったからね。ベンチャーズの「二人の銀座」や「パイプライン」を弾いてみたんだけど、指が動かなくて全然弾けなくて。これは合わないと思った。

──それでドラマーに転向したと。

KEITH:友達がドラムセットを持ってて、あるとき見よう見まねで叩いてみたら、上手い具合にいくなと思って。タイガースの瞳みのるさんのドラムは好きだったけど、自分でも叩けるとは意外だった。子どもの頃はパイロットとかになりたかったけど、中学の頃からもう音楽で食べていきたいと思ってたね。

──早熟ですね。中学の頃にやっていたのはコピー・バンドですか。

KEITH:タイガースとかテンプターズとかのね。グループ・サウンズのバンドはテレビでは作家の書いたヒット曲をやるけど、ステージではストーンズやジミヘンとか海外のコピーをやるんだよ。そういうのもカバーしてた。

──ゴールデン・カップスはジミヘンの「Hey Joe」をやってましたよね。

KEITH:そうそう。俺がいちばん最初に買った日本のバンドのアルバムはカップスだった。向こうのはジミヘンが最初。当時、女の子にキャーキャー言われるのはタイガースだったけど、俺が好きだったのはカップスやモップスみたいなクロい感じのバンドだった。東京に出てきて、カップスやモップスのライブを横浜で観たりもしたしね。

──ちなみに、秋田でライブを観たバンドは?

KEITH:ブルー・コメッツとテンプターズ。あと、安岡力也さんがやってたシャープ・ホークス。バックがシャープ・ファイブだった頃。

──ライブを観る機会が意外と多かったんですね。音楽の世界に入るきっかけは何だったんですか。

KEITH:高校3年の夏休みに単身東京へ出てきて、バンドボーイ(今で言うローディー)をやろうと思って。最初は親に反対されたので、家出みたいに飛び出してきた。ブルー・コメッツの事務所を探して押しかけて、「バンドボーイをやらせてください」とお願いしたら、「高校を卒業したらおいで」と言われてね。

──なぜブルー・コメッツだったんでしょう?

KEITH:他のグループ・サウンズのバンドと違って、ブルー・コメッツは髪も短くて身なりもちゃんとしてたし、親に説得しやすかったから。それで高校を出た1969年の春に改めて上京して、晴れてバンドボーイになるわけ。楽器を運んだり、お茶のセットを出したり、ユニフォームを着せたり、ステージが終わればそれを洗濯に持っていったりしてた。今みたいに楽器のチューニングをしたり、楽器に触らせてもらえることは一切なかったね。

──何年くらいバンドボーイをやっていたんですか。

KEITH:ブルー・コメッツは1年くらいかな。その後に成毛滋さんやつのだ☆ひろさんがやってたフライド・エッグのバンドボーイをやって、合わせて2年くらい修行させてもらった。

──下積み時代にどんなことを学べましたか。

KEITH:ブルー・コメッツからは礼儀の大切さを、フライド・エッグからはいろんな遊びを教わったね(笑)。だんだんスターの裏側を知れたのが面白かったよ。

──バンドボーイの同期で、のちに有名になった人はいますか。

KEITH:同じ時代で言えばマー坊かな。

──マー坊?

KEITH:土屋昌巳。カップスに押しかけてバンドボーイをやってたはずだよ。マー坊は現場で叩き上げた感じがしないかもしれないけど、実は俺と歳も一緒なんだよね。

安定よりもバンドを自由にやれる喜びを取った

──そんな修行時代を経て、1973年に4人組のフォーク・ロックバンド、オレンジ・ペコのドラマーとしてデビューするわけですね。

KEITH:あれは俺以外の3人(船橋たかき、原田ひろき、丸山コージ)がりりィさんのバックをやってて、バンドにしたいということで俺に声がかかったんだよね。3人とはそれまで面識がなくて、スカウトみたいな形だった。

──キースさんは〈キース戸部〉という芸名でしたね。

KEITH:そうそう。デビューする時、ロンドン生まれで年齢不詳みたいなプロフィールにしてさ(笑)。だけどオレンジ・ペコは歌謡曲に寄せたポップな感じで、自分のやりたい音楽性とは違ったので、1年も経たないうちにやめてしまった。俺はストーンズが好きで、ひとりだけ浮いた感じだったしね。

──キースというニックネームはキース・リチャーズから来ているんですよね。

KEITH:うん。あの人のつくる曲はもちろんだけど、生き方がすごい好きでね。バンドボーイの頃、ファンの子も俺がキース・リチャーズを好きなのを知ってるし、キースと呼べば俺が喜ぶと思って、いつからかそう呼ばれるようになったんだよ。

──ファンの方が命名したんですか。というか、バンドボーイ時代にすでにファンがいたとは。

KEITH:よく遊んでたからね(笑)。実際、当時の俺はキース・リチャーズと同じような髪型、似たような格好をしてたんだよ。

──オレンジ・ペコ脱退後、1977年春のARB結成までは3年ほど空白期間がありますね。

KEITH:次のチャンスを窺ってた頃で、とんぼちゃん(伊藤豊昇と市川善光によるフォーク・デュオ)のバックを手伝ったりとかしてたね。(田中)一郎とはオレンジ・ペコをやる前から知り合いで、オレンジ・ペコの現場で一緒になったり、より親密になってた。一郎は福岡から出てきて、リンドン(メンバーは田中信昭、田中一郎、伊藤薫)でプロ・デビューしてたんだけどね。彼がリンドンをやめて、新たにバンドをつくるからと声がかかったのが、のちのARB。

──新興音楽出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメント)が最初に声をかけたのは一郎さんだったんですよね。

KEITH:うん。一郎に「こういう話がある」と集められてね。面白そうだなと思った。

──その時はすでにアレキサンダー・ラグタイム・バンドというバンド名が決まっていたんですか。

KEITH:まだだね。メンバーも固まってない頃だから。加入の順番としては、一郎、俺、宮城(伸一郎)、エンマ、(石橋)凌。何度もオーディションしたけどボーカルだけずっと決まらなくて、1年くらいかかったんだよ。

──新興としては、ARBをアイドル的な要素を持った日本版ベイ・シティ・ローラーズにしたかったんですよね。

KEITH:新興はグループ・サウンズで当てたこともあったし、これからは日本でもベイ・シティ・ローラーズみたいなアイドル・バンドが当たるんじゃないかと考えてたみたいだね。事務所の先輩だったチューリップや、ピンク・レディーの後楽園球場コンサートの前座とかもやったけど、俺たちはアイドルみたいなことをやりたくなかったので、藤井さん(のちにARB OFFICEの社長となる藤井隆夫)と一緒に新興をやめることにした。1978年10月にシングル『野良犬』でデビューしてから、新興には1年もいなかったね。ファースト・アルバム(1979年6月発表の『A.R.B.』)を出した頃はほぼ新興をやめることが決まってたと思う。やめるのが決まって、「これが最後かな」とか思いながら北海道をツアーした記憶があるから。

──せっかくARBとしてデビューしたのに、いきなり後ろ盾をなくしたわけですね。

KEITH:新興の条件はすごく良かったんだけどね。スタジオは使い放題だし、社宅だった四谷の2LDKのマンションにもひとりで住んでたし。それを捨ててでも自分としてはもっと好きなことをやりたかった。ファースト・アルバムもバンドと新興の方向性が全然違ったし、俺はもっと骨太な音楽をやりたかったし。アルバム自体は別に悪いわけじゃないけど、音楽性がバラバラでしょ? 当時はパンクやニュー・ウェイヴが出てきて、そういうのも反映させたかったしね。

──独立して、凌さんは質屋通いをしたり、約1年半以上カップ麺だけの生活だったそうですが、キースさんは?

KEITH:俺も質屋には通ったけど、何とか暮らしてたよ。それよりも自分たちで自由にバンドをやれる喜びのほうが大きかった。ちなみに言うと、最初はメンバー5人と藤井さんで独立するつもりだったんだよ。だけど宮城は新興に残ってチューリップに加入して、エンマは音楽的な相違でやめることになった。当時、俺たち3人と藤井さんは取り残されたような気持ちだったね。

他のバンドにはないものをつくっていたARB前期

──1979年12月に発表されたシングル『魂こがして/Tokyo Cityは風だらけ』がARBの本当の意味でのデビュー作だとキースさんは以前からおっしゃっていましたね。

KEITH:うん。生活は厳しかったけどバンドをやるのは面白かった。ライブをやればやるほどお客さんが増えていったから。別にレコードが売れていたわけじゃなかったけど、ライブをやれば確実に動員が増えたからね。

──そのライブの活動拠点が新宿ロフトだったと。

KEITH:確実に朝まで呑ませてくれたからね(笑)。あの頃はロフトと音楽雑誌の『プレイヤー』がARBの恩人だった。当時の『プレイヤー』に載るのはほとんど洋楽ばかりだったのに、レコ評のヘッドライナーとして『BAD NEWS』を邦楽で初めて載せてくれたんだよ。あと、音楽評論家の平山雄一さんもARBをすごくプッシュしてくれたね。

──音楽でメシを喰えるようになったと実感したのはいつ頃でしたか。

KEITH:質屋通いをしないで済むようになったという意味では、サンちゃん(野中“サンジ”良浩)が入ってツアーを回るようになってからじゃないかな。お金に困ったのは独立したての頃だけだったし、リハ代と楽器車を買うお金は藤井さんが積み立てしてくれてたし、なんてことはなかったと思う。ちゃんと給料という形でお金をもらえるようになったのは、初めて渋公をやれた頃かな。

──バンドがようやく軌道に乗ったかと思えば、1983年には一郎さんがツアー中に突然脱退する事態になりましたが、結成当初からの盟友がやめることに対してキースさんはどう感じたんですか。

KEITH:やめると言う人に対して「やめるな」とは言えないからね。じゃあ次にどうしようか? と考えるしかない。俺は昔から去る者は追わず、来る者は拒まずなんだよ。女性に対してもね(笑)。

──その後のARBは斉藤光浩さん、白浜久さんと、ギタリストの入れ替わりと同時に音楽性を変化・進化させていきますが、いまだに根強い人気を誇るのは一郎さん、凌さん、サンジさんとの第1期メンバーの時代です。それはなぜだと思いますか。

KEITH:あの頃は他のバンドにはないものをつくっていたからだろうね。誰かの真似や借り物ではなく、ARBにしか出せない音楽を生み出していたから。

──当時、他のバンドにはないARBらしさとは何だと思っていましたか。

KEITH:リズムや詞だね。俺のドラムはただ8ビートを叩くのではなく、パターンで叩いたり、曲の世界観に合わせて叩くのを心がけてた。「BAD NEWS(黒い予感)」では戒厳令の緊迫した感じを出したり、「AFTER '45」の頭では雨粒が降り注ぐような音を鳴らしたりね。光浩の頃まではバンドで一から音を生み出す作業ができてたけど、久が入ってからは曲がある程度できた状態で音づくりをするようになった。でき上がったものを持ってこられるとアイディアを挟み込む余地がなくなるし、クリエイティブな意味での面白さが薄れてしまう。打ち込みで曲を用意されると、その通りに叩かなくちゃいけないのかな? とか思っちゃうしね。

──1990年10月にARBは活動休止となりましたが、凌さんが俳優活動を優先させたい気持ちはその前から薄々感じていたんですか。

KEITH:そうだね。この先、ARBはどうなってしまうんだろうとは思ったけど、しょうがないことだしね。活動休止中はいろんなセッションに呼ばれたり、周りの友達に助けてもらった。友達がいてくれるおかげで今もこうしてドラムを叩き続けていられる。

──1998年1月にARBが復活するまで約8年、長い歳月でしたね。

KEITH:またやれることになって、純粋に嬉しかったね。新しく加入した(内藤)幸也は俺が推薦したんだよ。幸也は歴代のギタリストと同じく作曲もしたけど、コンポーザーと言うよりギタリスト然としてたよね。EBIちゃんはもともとARBの大ファンで、ちょうどユニコーンが解散してた時期だったので声をかけてみた。

──結果として復活後の第4期ARBがいちばん長く続いたんですよね。

KEITH:そうみたいだね。あまりそういう実感もないんだけど。

──キースさんにとっていちばん思い入れのある時期はいつ頃なんですか。

KEITH:そういうのはあまりないけど、やっぱり面白かったのは前半の頃かな。何もないところから自分たちのオリジナリティをつくり上げていったし、ライブの動員も右肩上がりに増えていったからね。光浩が入った頃にはもう安定した人気だったので、それ以前の何もかも手探りでやってた頃は純粋に面白かった。

満足したらそこで終わり

──そんなARBも2006年3月に凌さんが脱退したことで再び活動休止になりましたが、昨年10月にはARBデビュー40周年記念ライブ『ARB SONGS ALL TIME BEST』が新宿ロフトで開催されて、アンコールを含めた全30曲をノンストップで叩き続けたキースさんの底力をまざまざと見せつけられました。どれだけ時間が経過しても、どのゲスト・ボーカリストが唄っても普遍性の高いARBの歌は今もまったく輝きを失っていないことを証明しましたね。

KEITH:楽曲がいいから古くならないんだろうね。バンドは休止してるけど楽曲は生きてるから、何かの機会があれば演奏したいんだよ。ARBの曲は俺にとって特別なものだし、いちばん自分らしく叩けるから。

──40周年記念ライブの最後にキースさんが「ARB、まだ続けます!」と高らかに宣言したことに鼓舞されたファンは多いでしょうね。

KEITH:単純に俺がARBの曲を叩きたいんだよ。そのために体のメンテナンスを怠らないし、ドラムをずっと練習し続けてるんだよね。だから俺もARBファンの一人なわけ。ARBの曲を叩ける機会があれば参加したいし、アマチュアの人たちがARBのカバーをするイベントにも喜んで参加する。ARBの曲を後世に残していきたいからね。

──来たる2月24日にロフトヘヴンで行なわれるキースさんのプレミアム生誕祭では、Groovin'が8年ぶりに復活を果たしますね。

KEITH:実は去年の秋、博多で一度ライブをやったんだよ。Groovin'は俺が腰を悪くしてツアーを回れなくなったのでやめたんだけど、もともとは自分たちのルーツ・ミュージックをやりたくて始めたバンドなんだよね。最初はメンバーが流動的で、伸ちゃん(藤沼伸一)やコバン(小林高夫)なんかもいたんだよ。

──プレミアム生誕祭にゲスト出演する森若香織さんとは、森若さんがアマチュア時代から面識があったとか。

KEITH:そうそう。ARBが札幌へ行くと観に来てくれてね。札幌にミルクというスタジオがあって、彼女はそこに出入りしてたんだよ。後から聞いたら、GO-BANG'Sのベースとドラムの子(谷島美砂、斉藤光子)がARBのファンで、森若ちゃんはロッカーズのファンだったみたいだね(笑)。

──同じくゲスト出演される内海利勝さんとも接点があるとは意外でした。

KEITH:ウッチャンがキャロルをやめた後に知り合うようになったんだけど、つのだ☆ひろさんたちのマネージャーがウッチャンのマネジメントをやることになってね。その縁でウッチャンがジャマイカに行ってレゲエを録ってきたアルバム(内海利勝&ザ・シマロンズ『ジェミニ』)に呼ばれて、そこで仲良くなった。

──プレミアム生誕祭はGroovin'がホスト・バンドを務める形ですか。

KEITH:うん。Groovin'が母体となって何曲かやって、森若ちゃんとウッチャンにそれぞれ入ってもらう感じだね。

──40周年記念ライブ同様、叩きっぱなしになるわけですね。

KEITH:でも、あの40周年記念ライブも全然疲れなかったんだよ。楽しかったからかな。昔なら間違いなく疲れてたはずだけど、今は合気道を習ってるし、普段からよく歩いてるし、体力は昔よりもあるんだよね。オレンジ・ペコでデビューして今年で46年、体のあちこちを手術して順風満帆とは言えないドラマー人生だけど、まだまだ叩きたいね。だから今がいちばん練習してるのかもしれない。ほとんど毎日スタジオに入ったり、ドラムを習いに行ったりしてるから。叩くことが純粋に楽しいのもあるけど、練習を怠るとすぐに体が動かなくなりそうで怖いんだよ。

──67歳を迎えつつある今がいちばんドラムに対してストイックなんですね。

KEITH:そうだね。タバコも酒もやめたし、現役なのはドラムとこっち(小指)だけだから(笑)。ずっと現役でドラムを叩きたいし、1日でも長くドラムを叩き続けたいし、ここで諦めたくない。ずっとARBをやってこれたのはみんなに育ててもらったおかげだし、楽曲がまだある以上はやり続けたい。ただそれだけなんだよ。そうでないと、もうとっくにやめてるんじゃないかな。俺はテクニックがあるわけでもないし、どれだけ練習しても「まだダメだな」と恥ずかしい思いをする。だけど満足したらそこで終わりだからね。どうやって自分のスタイルを確立するか、どうやったらもっと気持ち良く叩けるか、コツコツと地道にやり続けるしかないんだと思うよ。いくつになっても日々練習、日々探求だよね。

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