【平成の長崎】高田勇元知事死去 92歳 4期16年 普賢岳災害復興に奔走

平成30(2018)年

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 長崎県知事を歴代最長の4期16年務めた高田勇(たかだ・いさむ)氏が8日午後2時43分、心不全のため長崎市内の病院で死去していたことが10日、分かった。92歳。東京都出身。自宅は非公表。近日中に都内で近親者のみで密葬を行う。喪主は妻府子(もとこ)さん。長崎県は後日、長崎市内でお別れの会を執り行う。

 高田氏は東大法学部を卒業後、1949年に地方自治庁(旧自治省、現総務省の前身)入庁。消防庁予防課長だった70年に県総務部長に就任し、副知事を経て82年知事選で初当選。98年に退任した。99年、勲一等瑞宝章を受章。2005年まで長崎空港ビルディング社長、今年6月まで県国際交流協会理事長を務めた。遺族によると、体調不良で8月中旬から入院していた。

 中村法道知事は10日開会した定例県議会本会議の冒頭で死去を報告。「本県にとってかけがえのない幾多の業績を残された。その功績に改めて深謝し、ご冥福を心からお祈り申し上げる」と述べた。

 高田氏は久保勘一知事の就任直後に本県に赴任。放射能漏れ事故を起こした原子力船むつの佐世保市での整備受け入れや、財政難下での厳しい組合交渉など、久保県政を実務面で支えた。

 知事就任後は、松浦火力発電所(松浦市)の誘致や国営諫早湾干拓事業着工など県政の懸案を推進した。財源不足で頓挫しかけた九州新幹線長崎ルート整備計画を巡っては、佐世保市を経由しない短絡ルート採用を決断。地元の反発を押し切り、着工につなげた。一方、石木ダム(東彼川棚町)建設計画では測量調査を強行し、県警機動隊と反対住民が衝突する事態を招いた。

 雲仙・普賢岳噴火災害の復旧・復興に奔走した。実質的な個人補償を伴う国内初の災害対策基金を創設。天皇、皇后両陛下に計10度、被災状況をご説明した。

 長崎バイパス(長崎市)の片側2車線化や大島大橋(西海市)架橋など道路網の整備に注力。長崎魚市場(長崎市)の移転や長崎旅博覧会の開催は、長崎港沿岸再開発の先駆けとなった。日中友好に尽力し、胡耀邦中国共産党総書記ら要人と交流。在長崎中国総領事館(長崎市)開設を実現した。

 ■噴火災害被災地「感謝しきれない」 復興導いた功績大きく

 昭和から平成にかけての「県政の立役者」が逝った。長崎県の戦後公選知事7人中、最長の4期16年務めた高田勇氏(92)。気さくな人柄と、県勢浮揚に心血を注いだ情熱の持ち主だった。特に雲仙・普賢岳噴火災害からの復興に導いた功績は大きい。高田氏が築いた礎は次代へと受け継がれる。

 1990年11月から1996年6月の終息宣言まで5年以上に及んだ雲仙・普賢岳噴火災害で、知事として何度も被災地の島原市を訪れた高田勇氏。訃報に関係者からは悼む声が上がった。

 43人が犠牲になった1991年6月3日の大火砕流当時の市長、鐘ケ江管一さん(87)=南下川尻町=には忘れられない出来事がある。大火砕流から4日後の警戒区域の設定だった。居住地域では全国でも前例がなかった。それだけに、市民生活への影響を懸念し、当初、首を縦に振らなかった鐘ケ江さんを高田氏が説得した。

 「警戒区域を設定しても精神的、経済的に(困り)命を絶つ人も出てくる。設定するくらいなら死んだ方がまし」。ホテルでの押し問答の末、窓を開け足をかけた鐘ケ江さんを高田氏は「だれが市民の命を守るのか」と怒鳴ったという。警戒区域設定で、その後、鐘ケ江さんの在任中には一人の犠牲者も出なかった。災害対策基金を創設するなど被災者の生活支援にも尽力した高田氏に、「冷静で度胸のある人だった。感謝しきれない」と悼んだ。

 当時、九州大島原地震火山観測所(現在の地震火山観測研究センター)所長だった同大名誉教授の太田一也さん(83)=弁天町1丁目=は「6月3日以降、知事は頻繁に観測所を訪れ、助言を求められた。93年には土石流が拡大。矢板打ちを提案すると国に直談判されすぐに実現された。“動く司令塔”のようだった」と振り返り、「長生きされて当時のことをもっと本音で語ってほしかった。残念でならない」と肩を落とした。

 被災者からも惜しむ声が上がった。土石流で家屋と洋ラン用ハウスが流された立光一孝さん(64)=雲仙市吾妻町=もその一人。当時、島原市中安徳町で洋ラン栽培を営んでいたが、警戒区域設定で栽培ができなくなった。高田氏は被災農家との会合で話を聞き、迅速に対応したという。「92年5月には吾妻町で洋ラン栽培を再開した。今があるのも高田さんのおかげ」と功績と人柄をしのんだ。
(平成30年9月11日付長崎新聞より)
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【平成の長崎】は長崎県内の平成30年間を写真で振り返る特別企画です。

高田勇元知事