単身で地方出向を続ける男性産科医、訴訟対策と激務の果てに

医学部の相次ぐ定員増や2016~2017年に医学部が2校も新規開設されたにもかかわらず、医師不足のニュースは相変わらず世間をにぎわしています。診療科別にみると、医師不足の筆頭に挙がるのが産婦人科ではないでしょうか。昭和時代には「病院で唯一『おめでとう』と言える科」「開業すればキツいが儲かる」として一定の人気があったのですが、「医療訴訟の多発」「当直の多さ」などから、近年のワークライフバランス重視ムードの中で志願者が急減しています。1994年から2016年で、医師総数は23万人から32万人まで39%増加しているのにもかかわらず、この期間に産婦人科医は6%減少しています。

今回は、地方の公立病院で常勤医師として働く産科医、津田先生のお財布と人生を覗いてみたいと思います
※本稿は特定の個人ではなく、筆者の周囲の医師への聞き取りをもとにしたモデルケースです。


津田純也先生(仮名):44才、中部地方の国立L医大出身、地方の公立病院で産婦人科部長、病院近隣のアパートに単身赴任中、妻(産婦人科医)と息子2名は東京都在住

【平均的な月収】
病院からの本給 月約75万円(税込、別にボーナス3か月分)
当直手当金 一回3万円×月10~15回
外部応援当直 一回7~15万円×月5~10回
各種謝礼など 5~10万円

【支出】
・住居費・光熱費・通信費:7万円
・食費:8~12万円
・車両費: 10~15万円(アルバイト先通勤や別居中の妻子面会、車で高速道路での移動)
・書籍・学会費:5~10万円
・妻子に仕送り:25~30万円

【資産】
不動産:豊島区のマンション
車:トヨタ ランドクルーザー、東京都内の妻はアウディA3
預貯金・株式・投資信託:約1,300万円

病院で唯一「おめでとう」と言える科

津田先生は千葉県のサラリーマン家庭のご出身ですが、母方の祖父が産婦人科医師だったそうです。東北地方の診療所で活躍する姿をぼんやり覚えており、県立進学高から一浪の後、地方国立医大に合格しました。

医大時代には勉強はソコソコがんばりつつ、サークルや貧乏旅行にも熱中していたそうです。卒業後は関東に戻ることを希望し、祖父の縁故で東京都内の名門M医大産婦人科学教室に入局しました。当時の医療界は学閥と縁故に支配されており、地方医大出身者が東京の有名大学病院に就職した場合には「外様医局員」としてソルジャー扱いされるのは当然とされていました。そんな中で産婦人科を選んだのは、「病院で唯一『おめでとう』と言える科」と同時に、「コネのある医局が無難かな」と考えたのでした。

昭和時代、産科は男の職場だった

津田先生が医大卒業した昭和末期は、医大生女性率が10~20%であり、手術や当直の多い産婦人科は「男の職場」という雰囲気が漂っていました。女性医師に対しては「入局後2年は出産禁止」と教授が公言するのも珍しくありませんでした。1年目研修医は「大学病院で当直週2回+外病院当直アルバイト週2回」レベルの泊まり込み業務は当然とされており、「月の半分以上は病院で寝る」のは産科研修医として当然とされていました。当直室は和室で雑魚寝、夜中にお産があると先輩に蹴られて起こされました。

当時の大学医局には「トランク派遣」という用語がありました。教授の命令で、大学病院から地方の病院などに、若手医師が文字通り「トランク」一つをぶら下げて、1週間~数か月程度、出向するのです。当時の大学病院における教授の命令は絶対であり、津田先生は将棋の駒のように「来月いっぱい山形」などと命じられましたが、学生時代からインド放浪旅行などをこなしてきた津田先生にとっては、地方巡業はそれなりに楽しかったようです。出産祝いに米や銘酒を貰ったり、赤ちゃんを背負って駅まで見送ってくれるお母さんがいたり、多忙な中にもやりがいのある日々でした。

「母子死亡率低下」「何かあったら医者のミス」のジレンマ

時代は平成に移り、女子医大生率はジワジワ上昇しはじめ、産婦人科を目指す女医も増えていきました。また、昭和時代には「とにかく母子とも健康であればよい」とされていたのが、「患者の心に寄り添う」など満足度を求められるようになりました。産婦人科で「男性に内診されたくない」と主張する患者がいれば、昭和時代ならば一喝されて終了だったのに、「患者希望に沿うように」という通達がM医大でもなされ、新人産婦人科医の過半数は女性の時代となりました。

また、医学の発達にともない分娩中の母子の死亡率は減少する一方で「お産で母子とも安全なのはあたりまえ」という雰囲気が世間に広まり、「何かあったら医者のミス」とでもいうような医療訴訟が徐々に増えつつありました。この頃、津田先生の同期医師も死産した元患者から訴えられ、和解に持ち込んだものの消耗してしまい産科を辞めたそうです。

2006年、産科医逮捕の衝撃

2004年に始まった新研修医制度により、若手医師の多忙科回避が顕著になりましたが、産婦人科に関しては2006年の産科医逮捕の影響が大きかったでしょう。福島県大熊町の県立病院で帝王切開手術後に妊婦が死亡し、産科医は業務上過失致死罪に問われて逮捕されたのです。この事件を契機に、分娩の取り扱いを止める地方病院が多数出現し、産婦人科希望者も大きく減りました。2008年には無罪判決が出た後も、分娩を止めた病院の多くは再開しませんでした。

この頃、北関東の病院に勤務していた津田先生も育休中の女医をカバーして1人で頑張っていたので他人ごとではありませんでした。若手医師が激減したので大学病院からの応援はなく、育休女医は育休明けに産科を辞めて健診センターに転職したそうです。

地方ドサ廻りに疲れ果てて

M医大でも2000年以降に若手女医が急増し、彼女らが妊娠出産する年頃となり、産休育休のしわ寄せは津田先生のような中堅男性医師の肩に重くのしかかりました。新研修医制度以降の世代は自分の希望は明言するし、労働基準法には詳しく、意に沿わない人事だとサクッと辞めるので、慢性的人手不足の産婦人科医局としては強く出られません。。子持ち女医の多くは東京残留を希望するので、津田先生の地方巡業は終わる見込みがありません。また、2006年の事件のように、地方でも医事訴訟が頻発する時代となり、その対策としての書類作成や会議は増える一方で、津田先生は部長として会議に出席しつつ、卒業後10年経っても下っ端としての書類作成にも追われています。

津田先生は東京勤務だった頃に後輩女医と結婚しましたが、奥様が妊娠してからは東京残留を強く希望するようになりました。「夫は地方病院巡業、妻は実家近くの都内でパート勤務」状態が何年も続いています。

東京のマンションで「家族一緒に暮らしたい」「パートで良いから自分の病院を手伝ってほしい」と強く訴えましたが、奥様は「子供の教育」を理由に提案を拒否し、津田先生の中で何かがガラガラと崩れてゆきました。

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