初対面の印象は?1番の思い出は? クロマティ氏×篠塚和典氏の特別対談(3)

巨人時代の思い出話に花を咲かせたウォーレン・クロマティ氏(左)と篠塚和典【写真:荒川祐史】

巨人では7年間チームメート、熱い友情で結ばれる2人が当時を振り返り大盛り上がり

 巨人OBのウォーレン・クロマティ氏と篠塚和典氏の特別対談が実現した。“巨人史上最強助っ人”と呼ばれたクロマティ氏と球史に名を残す巧打者の篠塚氏は、7年間チームメートとしてプレー。今も熱い友情で結ばれている。「Full-Count YouTube」では、対談の様子を公開中。その全容を全3回に渡ってFull-Countで掲載する。

 第3回は「巨人時代について」。1980年代の巨人を主軸として支えた2人が昔話に花を咲かせた。初対面の印象は? 一番の思い出は? 今まで明かされなかった秘話も交えて、思う存分語ってくれた。

――お二人は7年間、巨人で一緒にプレーしました。第1印象は?

クロマティ(以下、ク)「ハジメテは84年。王さんが監督で、チーム練習はタマガワでした。私は練習に初めて行ったけれど、チームメートはエガワさん、サダオカさん、ニシモトさん、ナカハタさん……全員スーパースターでした。最初のランニングは2人ずつが並んで走りました。シノさんは私の前を走っていて、こちらを向いてこう言ったのです。『マイネーム・イズ・シノ! シノヅカ! ユー、シノと呼んで! オッケー?』。彼だけが話しかけてくれました。絶対に忘れませんよ。たくさんプレッシャーがありました。これでリラックスできました。先輩だけど友達。長い時間、ベストフレンド。ランチに行きます。払うのは自分ばかりですが、ダイジョウブですよ(爆笑)」

篠塚(以下、篠)「(クロマティは)スマートというか、動ける選手じゃないかなというのはありましたね。それまで来る選手は、パワーはあるんだけど、動きがどうかという選手が多かったので。遠くから来ているわけだから、やっぱり活躍してほしいと、そういう思いがずっと自分の中ではあったので。見た目もこういう人を惹きつけるような明るさもあるし、それが彼の持ち味だったと思う。他の選手なんかも意外とスムーズに溶け込めたところがある。だから、彼がいつもさっき話したようなことを言ってくれて、自分の中でもホッとしているというか、最初のそれが良かったんだなという感じがありますよね」

――クロマティさんはスター軍団の敷居の高さを感じていた?

篠「うーん、感じたのかな、クロ(笑)。ジャイアンツというチームは彼が向こうにいるときから聞いていたと思うし、やっぱりある程度不安で入ってきたと思うので、その気持ちっていうのを少しでも和らげることが(できたと)彼の言葉を聞いてると感じたので、本当に嬉しかったですよね」

ク「(当時)我々はいいラインナップでしたよ。最初の監督はオウさん、次にフジタさん。ラインナップは良かった。三振は少なかったし、スピードもありました。パワーは少し。ハラさん、私、時々シノさん。シノさんはライナー打者でした。コンタクト率90%。三振はない。スピードは素晴らしい。盗塁、ヒットエンドラン。基礎技術が高かった」

篠「みんな個性があったよね。走れる選手、自分なんかがそうだけど打率を残せる選手、ホームランを打つ選手、打点も稼げる選手……。ファンの人が見てても、タイトルを取るんじゃないかっていう選手がいたので、それは面白かったと思いますよ、外から見てても。それが1つの強さの秘訣だと思います。ジャイアンツに対しては、エースがみんな投げていたわけだから。その中で勝っていく、タイトルを獲っていくというのは、他のチームとはちょっと違う。そういう意味ではそれなりのいい選手が揃っていたなと思いますよね」

――クロマティさんと篠塚さんのお互いのいいところは?

ク「彼はテクニシャン。ヒットを打てる。(相手の)右左関係なしに打てる。二塁の守備も素晴らしい。捕球がうまい。守備が柔らかい。ダブルプレーも取れる。万能型の素晴らしい選手。シノに関して心配の必要は全くありませんでした。ラインナップが発表されて、シノが出場すると、安心しました。内野でいいリーダーシップを誇っています。チームメートとしても最高。移動の(バスの)座席も隣でした。すごく重要な友情だったと思います」

篠「クラウチングスタイルというか、本当にああいうスタイルというのはメジャーの選手で主流だったこともあるかもしれないけど、よく腰を壊さないなと思ってましたけど(笑)。1年目より2年目、3年目、4年目と日本の野球、日本のピッチャーに慣れてきて、それだけ自分でも研究して。我々も彼のタイミングの取り方とかそういうものを見ながら勉強もしていました。自分が調子が悪い時には黙ってクロのバットを使って打ったりとかしながら、時々はバットをいただいたりして、そういう形でやっていました。彼も日本の野球では、ここではこういうバッティングをしなきゃいけないとか、チームに残りたいという思いでやってきたと思います。それが長く続き、7年間と長くチームに残れた。彼の性格もあると思います。そういうものがあって、彼が長くジャイアンツにいられたというところだと思いますよね」

2人の思い出は…「やっぱり日本シリーズでしょう。ねえ、クロ(笑)」

――クロマティさんが篠塚さんから学んだことは?

ク「彼は相手投手について色々教えてくれました。ピッチングスタイルを熟知していましたから。そして、いいチームメートでいるためにどうすればいいのか、ということも学びました。自分が不振に陥った時にも、声をかけてくれた。『問題ない。大丈夫だ』と。元気がない時にも『クロさんダイジョウブ? 元気ないけれど』と声をかけてくれる。それで元気になれた。彼のコミュニケーションは大事だった。シノは安定性の代名詞。シノは毎年活躍する。今はメジャーの選手でも、1シーズンはいいけれど、次のシーズンは成績を落とすケースが多い。シノは首位打者になった後も、打率.290。ゴールデングラブも何回も受賞している。何回だっけ? 4回? ディフェンスも素晴らしい。彼は日本代表の指導者になるべきだ。経験、知識が素晴らしい」

――現役時代のお互いの1番の思い出は?

ク「今でも忘れられない試合は1989年のヨコハマです。彼が最後の打球をキャッチして、ダブルプレーに仕留めました。彼は外野の方を振り返って、センターの私に向かって、口笛を吹くと(胴上げに向けて)腕を回すジェスチャーでこう言いました。『ハリーアップ(早く来い)!』。クールな瞬間でしたよ。

 私自身のプレーは神宮。デッドボールを受けた次の試合に復帰して、満塁ホームラン。それで私の日本での人生が全て変わったね。ファン、チームメート。24時間で全てが変わりました。尾花さんがピッチャーでした。大好きオバナさん。ウハハハ。どんな打者にも好物の投手はいますから」

篠「みんな大好きよ、尾花さん。エブリプレーヤー、大好き(笑)」

ク「みんなオバナさん大好き? ホントウニ? オバナさんは人間としてすごくナイスガイよ。ピッチャーとしてはオバナさん大好き。とにかく打席で気持ち的に余裕を感じることができました。メジャーでも何人かそういう投手がいましたよ。いつもよりボールがよく見える投手といいますか。フィーリングの部分ですね」

篠「私は(1番の思い出は)最初に首位打者を獲ったとき。1番緊張したというか、地に足がつかないとはこのことかと思ったくらいですよね。堀内さんがピッチングコーチで、ピッチャーが槇原だった。試合前に、堀内さんがマキ(槇原)に、絶対に(首位打者争いのライバルだった)若松に打たせるなと会話していたのを聞いてしまったので。マキにも苦労させちゃいけないないと思って、早く1本打とうと思ったんですけど、本当にバッターボックスに立った時に浮いちゃってる状態。何やっても駄目なんですよね。それが2打席連続だったんですよ。3打席目でセンター前に打って決まったんですけど、その試合は自分の中では1番印象に残っているというか。

 守りでは腰をやった(怪我した)ときですね。もう9月に入っていて、雨も降っていて、試合が1時間くらい伸びたんですよ、甲子園で。その日はジャイアンツも状態が悪くて、ベテランにちょっと頑張ってもらいたいということで。自分もその当時は腰をやっていてゲームに出ていなかったんですけど、気合い入れていたら雨で1時間中断で、出ていってトップバッターがセカンドゴロを打ってきて、そこで捕った瞬間に痛めたんですよ。ギックリ腰みたいなもんですけどね。そこでシーズンの試合が終わってしまった。その年に日本シリーズで1回代打で出ただけで終わっちゃったので、守りではその試合というのが1番残ってますよね。情けなかったというのがね」

――クロマティさんのプレーでは?

篠「やっぱり(1987年)日本シリーズでしょう。ねえ、クロ(笑)」

ク「(笑)。日本シリーズ、西武戦(日本シリーズ第6戦の送球ミス)。誰もがあのプレーを忘れていないでしょう。ピッチャーがミズノさん。ユー(篠塚氏)が二塁。ショート、カワイさん。ノーカットマン。全くいい思い出ではありませんよ。西武はとにかく強すぎた」

――先ほど尾花さんの話が出ましたけど、相性の良い投手というのはいるものですか?

篠塚「やっぱりいますよね。長年やっていれば調子がいい時に出てきてくれたりすると、自然と打っちゃうというピッチャーもいます。(広島の)大野さんみたいなタイプは嫌いでしたし」

――大野さんは打ちづらい?

篠「やっぱりシュートがあるので、それを意識すると……。ただ、めちゃくちゃコントロールがいいピッチャーではなかった。クロもデッドボールを食らってると思いますよ」

ク「オオノさんは打ちづらい。モーションがちょっと変。(投げるときに)ボール見てないよ」

篠「タイミングも合う、合わないもあるからね。僕は右ピッチャーで池谷さんがやっぱり駄目だった。(クロマティ氏に向かって)ドゥーユーノウ、池谷? 右ピッチャーの池谷。そういうタイミングで合わないピッチャーっているんでね」

タイムをかけて「ハラさん、あのボクサー犬買った?」

――今の巨人監督の原さんとの思い出で印象に残っていることは?

篠「(1981年に)自分の中では『今年から』って思いながら(原監督が)入ってきて(二塁から)控えに回ってしまったというのもあったんですけど、それが逆に自分の気持ちを奮い立たせてくれたというのもあります。でも、長嶋さんから電話で『腐るなよ。必ずチャンスは来るからしっかりやっておけ』と。そういう思いで1か月間やれた。その後に中畑さんが怪我をして(原監督が三塁に回って)それからずっと出られるようになったというのがあったので。(原監督が)ジャイアンツに入ってきた時に僕は1から10まで全部教えましたよ。(守備では)絶対に俺よりは上に行かないと思っていたから(笑)。抜かれそうな選手には教えないと思いますよ。自然と守備位置も変わっていって、しっかり落ち着いたなっていう感じはしますよね」

ク「短い話があります。ある試合で、ハラさんは3番打者で自分は4番打者でした。ハラさんは不振で打撃スランプでした。ハラさんの打席で一、三塁のチャンスでしたが、ハラさんの顔の様子がちょっとおかしい。これはダメだと思ったので、私がアンパイアにこう言いました。『タイム!』と。そして、『ハラさん、カムヒア!』と呼んだのです。ハラさんは驚いていましたが、そこはおかまいなしで呼びました。何を話したかといえば、『ハラさん、あのボクサー犬買った?』。全く(野球と)関係ない話題です。『君はボクサー犬が好きだけど、自分はシェパードの方が好きなんだ。どう?』と。私は彼のマインドを変えたかった。ハラさんの顔色も変わりました。『新しい犬買ったの?』と。ハラさんがちょっと落ち着いた様子で『ノー。犬は買ってないんだ』と答えたところで、『打席に戻っていいよ。頑張ってね』と伝えました。ハラさんは打席に戻りました。いきなりヒットです。そこから打ちまくりましたよ」

篠「原はボクサー犬を飼ってたからね。それも1つの手ですよね。我々もそうですけど、明日いいことがあるって想像しながら前の日にゲームしたり。ちょっとしたきっかけでチェンジマインドじゃないけど、そういうことは大事ですよね」

――最後に、当時と今のプロ野球に違いは感じますか?

ク「西武のアキヤマは大リーグ級の選手でした。エガワさんは大リーグ級の投手でした。ミスター・フォークボールのムラタさんも大リーグ級の選手でした。1984、85、86、87、88、89年は黄金期でした。たくさんスーパースターがいた。今、スーパースターはまぁまぁ。1人か2人くらい。(当時は)バース、カケフ、マユミ、オカダ、ブーマー、ムラタさん、エンドウ、キヌガサ、ヤマモトコウジ、西武にはたくさん……日本球界で最高の時代でした」

篠「そんなに変わりはないと思います。(今も)各チームにはスター選手もいますし、時代の流れと言っちゃえば年だなとなっちゃうかもしれませんけど(笑)。その年代をやってきた人はやっぱりそう思うし、今の年代の野球を見てる人は、あまり昔の野球は見てない人がいるから。両方見ている人は昔も面白かったけど、今の野球は面白いよっていう人もいるし。確かに野球自体の見方は変わってきてるのかなという気はしますけど。放送もそうですしね。いろんなテレビ局もBS、CSでもやっているので。我々のときは本当に地上波しか映ってなかったので、スターに会う機会もなかったと思います。雲の上(の存在)というか、そういう感じで思っていたのに、今は本当にファンサービスも色々やっているから、いつでもスターと会えちゃうというところがあるので、昔と今のスター選手の価値観が変わってきてる気はしますよね」(Full-Count編集部)

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