阪神スアレスが掴んだジャパニーズドリーム メキシコで語り継がれる右腕の物語

阪神のロベルト・スアレス【写真:津高良和】

ソフトバンクから阪神に移籍したスアレスは15年にメキシカンリーグで彗星の如く現れる

 今季、ソフトバンクから阪神に移籍したベネズエラ人のロベルト・スアレス投手。最速161キロの速球派右腕は、当時24歳だった15年にメキシカンリーグで彗星の如く現れ、抑え投手として好成績を収めた。そして、ソフトバンクの海外スカウトの目にとまり、同年オフに日本行きを実現。ジャパニーズドリームを手にした。

 メキシコで所属していたのは、当時同リーグの中でも弱小チームの1つと言われていたサラペロス・デ・サルティージョ。リーグ終盤には、日本だけでなくメジャーからも異例の約20球団のスカウトが視察に訪れ、数球団が獲得オファーを出したという。かつての古巣、そしてメキシコ国内では、移籍から5年経った今でも、選手やチーム関係者らの間で、スアレスの“ジャパニーズドリーム伝説”が語り継がれている。

 メキシコ北部にあるコアウイラ州の州都サルティージョ。スアレスがプロとしての一歩を踏み出したチームは、標高約1600メートルの高地にある。半数以上のチームが標高1500メートル以上の高地に本拠地を置き、気圧が低く、打球が飛ぶため、打高投低と言われる同リーグ。圧倒的に投手が不利な中、スアレスは43試合、5勝0敗、23セーブ、防御率1.71の好成績を収めた。47回1/3を投げ、48奪三振、7四球。直球は最速99マイル(約159キロ)を記録していた。直球で三振が奪え、四球も少ない。リーグ内で「サルティージョに凄い投手がいる」という噂が広まるのに時間は掛からなかった。

 というのも、同リーグでは常時150キロ以上の速球を投げる投手は数えるほどしかおらず、緩急を使った軟投派が主流だからだ。先発の多くは直球が140キロ台前半で、リリーフも140キロ台後半が多い。そのため、150キロ台後半を出すスアレスの存在は異色だったのだ。しかも「高地を本拠地とするチームの投手の防御率は、低地の数字に2を足した数字になる」(同リーグ関係者)と言われる。つまり、低地で防御率3.00の投手なら、高地だと5.00程度になるという認識だ。そんな中、高地を拠点とするチームで防御率1点台をマークすることは極めて難しい。しかも、被本塁打はわずか1本。いかに、スアレスがリーグ内でずば抜けた存在だったのか、データを見てもよく分かる。

ケガ人発生でスアレスにチャンス、中継ぎスタートから結果を残し抑えに

 スアレスがサルティージョでプロデビューを飾ったのは、開幕から約2週間後だった。他の外国人選手がケガをし、出場選手登録を外れたことで、リザーブリストに名前のあったスアレスにチャンスが訪れた。中継ぎからスタートし、順調に相手打線を抑えていくと、セットアッパーから抑えに昇格。元メジャー選手らを抱える強豪チームの打線を次々と封じ込めていったことで、最終的に日本行きのチャンスが開けたのだ。

 だが、メキシコでプロ契約をつかむのは簡単ではなかった。出身地のベネズエラで子供の頃に野球を始めたスアレスだったが、10代の頃、ベネズエラにアカデミーを置くメジャー球団とは契約することはできなかった。2歳年上で、現在ヤクルトでプレーする兄のアルベルトは16歳の時にレイズと契約。だが、弟のスアレスは当時、今ほど直球が速くなく、目立つほどの存在ではなかったのだという。兄に続くことができなかったスアレスは、20歳で一旦野球を辞め、母国で工事現場の作業員やタクシーの運転手として働いていた。だが、夢を諦めきれず、2年後に再び野球を再開すると、23歳になった14年にメキシコに渡航。週末にだけ試合が行われるアマチュアリーグでわずか数千円の日当をもらい、何とか生計を立てながら、メキシコでプロ入りの道を探った。

 しかし、23歳になるまでプロ経験が一度もない選手を取ろうとする球団はなかなか現れなかった。メキシカンリーグ数チームのトライアウトを受けたが、結果はどこも不合格。球は速くても、プロでの実績が全くないことで、各チームとも二の足を踏んでいた。中南米の中でも、特にドミニカ共和国やベネズエラには、コントロールはないが、球だけはめっぽう速いという投手はゴロゴロいる。過去の実績がないため、スアレスもそのタイプの投手の1人ではないかと思われてしまっていたのだ。

 そんな中、唯一チャンスを与えてくれたのが、弱小で資金力のないサルティージョだった。偶然にも、14年冬にプレーしていたアマチュアチームのオーナーが、当時のサルティージョのオーナーでもあった。そしてスアレスに、練習生としてチームでプレーすることを認めてくれたのだ。周囲に「プロになるまでは本当に金がなかった」と、打ち明けていたスアレス。開幕前はあくまで、他の外国人選手に何かあった時の“保険”としての立ち位置だったが、開幕時にリザーブとしてチームに残ると、巡ってきたチャンスで結果を残し、その道も開けていった。

チームメートが語るスアレスの凄さ「メジャーの複数の球団からもオファー、注目の的だった」

 当時、同じサルティージョでプレーしていたルイス・デ・ラ・オウ投手は振り返る。「彼は球がとても速く、コントロールもすごくよかった。日本だけでなく、メジャーの複数の球団からもオファーが来ていたから、注目の的だった」。同じく、チームメイトだったフェルナンド・ペレス・アブレウ投手もこう語る。「ロベルトが日本のチームと契約を結ぶことが決まった時には、仲間の間でも衝撃が走った。それほど凄いことだった。確かに球は速いし、試合でも抑えていた。スカウトもたくさん来ていたし、いいチームが彼を引き抜こうとするのは当然のこと。でも、いきなり日本の球団と、マイナー(育成)ではなくメジャー(支配下)契約を結ぶことになったから、驚きは大きかった。今でも当時のチームメイトたちと顔を合わせると『あの時、あいつまじで凄かったよな』って話になるんだ」。

 メキシカンリーグは3Aレベルとされているが、実際には2Aと3Aの間くらいと球界関係者の間では言われており、メジャーのスカウトが頻繁に足を運ぶことはそれほどない。メキシコ人の若手有望株はすでにメジャー球団と契約し、その傘下のマイナーチームでプレーしている。20代中盤以降のメキシコ人は、メジャーの球団をクビになり、プレーの場をメキシコに移した選手や、メジャー球団から一度も声がかかることなく、メキシコ一筋でプレーしてきた選手が大半で、外国人選手も多くがメジャーや3Aでの経験がある30代のベテランばかり。つまり、獲得したい若手の年齢の選手で、実際に契約に至るまでの高いレベルの選手がほとんどいないからだ。

 日本の球団も、スカウトが同リーグに定期的に視察に訪れているのはソフトバンク、巨人の2球団だけで、ほかの10球団はほとんど足を運ぶことはない。だが、当時はリーグ終盤の8月になると、ネット裏にはスアレスを獲得したソフトバンクだけでなく、メジャーのスカウトも20球団以上が視察に訪れていたという。ドミニカ共和国のウインターリーグなどと比べ、メジャースカウト陣の注目が低いリーグからの移籍だったからこそ、その衝撃は大きかった。

 ちなみにその年、兄アルベルトはエンゼルス傘下の2Aでプレーしていた。だが、メジャーならまだしも、兄弟がマイナーでプレーしているという選手は珍しくなく、サルティージョの球団関係者、そして視察に訪れるスカウトらの間でも、当初スアレスの兄がプロ野球選手であることすら知られていなかった。兄アルベルトは翌16年にジャイアンツでメジャーデビューを果たしており、同球団関係者は「当時、もし兄が既にメジャーリーガーで、その弟だと知られていたら、もっと早い時期から積極的に獲得に乗り出していたメジャーの球団もあったと思う」と振り返る。

メキシカンリーグでは若手の給料は数十万円、日本に来て10倍以上に膨れ上がり強烈なインパクトを

 サルティージョの球団関係者でさえ「まったくプロ経験のない選手が、メキシカンリーグで1年目からあそこまで凄い成績を残すなんて誰も思っていなかったし、メジャーや日本の球団からオファーがくるなんて、思いもしなかった。球は速かったし、直球で三振も奪っていたが、まさかあれだけ化けるとは…。もうあんなことは2度とないんじゃないかと思う」と明かす。

 メキシカンリーグは日本とは違い、契約時にサイドレターを付けて年数を特別に定めている場合を除き、国内選手だけでなく外国人選手にも通常は契約年数というものがないため、他国のチームが同リーグの選手を獲得する場合には、所属チームに違約金を払わなければならない。通常、違約金の額は決まっておらず、その選手を保有する球団の言い値だ。

 ソフトバンクがスアレスを獲得した際には、当時サルティージョには1000万円以上の違約金が入ったと言われている。複数のメジャー球団からもオファーが届いたため、球団側が違約金の額を高めに設定したのだ。スアレス自身も、来日1年目は推定年棒5000万円で契約。メキシカンリーグでは、実績のない若手の給料は月十数万円から数十万円で、年棒制ではなく、月ごとの日割り計算となるため、年収は日本に来て少なくとも10倍以上に膨れ上がった。そんな高額アップを勝ち取ったことも、メキシコ国内に強烈なインパクトを残したのだ。

 ソフトバンクへの移籍から5年が経った今でも、メキシコの選手や関係者らの記憶に鮮明に残っている“スアレス伝説”。58試合に登板し、26ホールドを挙げたソフトバンクでの16年の活躍後、トミージョン手術での離脱もあり、その後は思うように成績を挙げることはできていないが、阪神に移籍した今季、再び日本で結果を残すことができれば、メキシコでの評価も再び上がることになるだろう。(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)

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