THE BADGE - 解散ライブから34年。中村昭二、博多での完全復活ライブを経て、いよいよ東京に凱旋!!

THE BADGE、今回の活動再開について

──まず昨年11月に「THE BADGE NIGHT」が福岡で開催されまして、「THE BADGE 2019」として15年ぶりにステージに中村さんが立ったわけですが、どういったキッカケだったんでしょうか?

中村:数年前からいろいろオファーは頂いてたんやけど、もう断る理由もなくなってしまって(笑)。熱心なフリークが博多まで来てくれて、OKするしかなかったんです。病み上がりなもんで健康面も考えて最初の開催は博多でね。1999年にTHE BADGEの田中信昭リーダーが亡くなって、昨年でちょうど20年……なんかせないかんやろなあと思って。最初は命日に近い5月のGWあたりで計画してたんやけど、スケジュールが少しずれてしまってね。でも、2019年中にはなんとか開催したいという気持ちで。

──正直なところ、過去の曲をやったりとかはあんまり興味がないのかなーなんて勝手に思ってましたのでビックリしましたよ。

中村:楽曲はすべて自分の子供という考えをもっています。できの悪い子供ばっかりやけど……なんの違和感もなく歌うことができたね。逆に当時よりも愛着を持ってプレイできたんやないかな?

──THE BADGEの再評価みたいなものはもう長いこと続いていますけど、今回またTHE BADGEの曲をプレイしようと思ったのはどういう心境だったのですか?

中村:実は1年半前に肺がんの宣告を受けて、手術で右の肺の半分を摘出したんよね。

──そうだったんですか……。

中村:BADGEの再評価のムーブメントは当然知っとったし大変感謝していました。そんで、ある日“もう一回ステージに立てるかな?”とか考え出してきて。みんなに伝説の中だけのBADGEのLIVEを、実際に見てもらうことが恩返しかなって。

──すごいプレゼントだったと思います。バックはTHE BARRELという若者たちですが、なぜ彼らとやろうと思ったのですか?

中村:これは運命を感じたんやけど、ある日何気なくYouTubeを観てたら、若い男の子が一人で弾き語りでBADGEの『SEXY DRIVER』を歌ってて、結構うまかったんよ。それがTHE BARRELのタケルで。その後、博多で会っていろいろ話しをするうちに一緒にバンドを組もうっていうことになって(笑)。そしたら彼のお父さんがBADGE FREAKやったんよ。

──へぇー!!

中村:親子二代のBADGEかぶれやった。小さい頃からBADGEのビートを聴かされとるから、ノリが違うよね。

──彼らと一緒にプレイしてみていかがでしたか?

中村:あれ? BADGEよりうまいっちゃない? って思うた(笑)。まぁ、こいつらやから一緒にバンド組もうと思ったんよね。僕のバックバンドじゃなくホントのバンドとしてね。

──おぉ、そこまでですか! すごい! 博多で共演したBADGE影響下のバンドたちはどうでした?

中村:みんなが真のBADGE FREAKSで、すごく楽しそうに演ってる姿に心打たれたよ。みんなに会えて、握手して、まだ生きとって良かったって思うた。お礼の意味を込めて各バンドに僕の書き下ろしの曲を一曲ずつプレゼントさせてもろうたよ。そしたら今回のステージで歌ってくれよった。ちょっと涙が出たね。

2000年代、海外から火がついた再評価

──それは是非聴いてみたいです! 昭二さんの曲が新しく生きていくわけですね。さて、海外のパワーポップの発掘コンピレーションシリーズ『POWERPEARLS』のvol.6に楽曲が突然収録され、ジャケット写真に使用されたことでBADGEを知った人も今のファンには多いと思いますが、昭二さんはそのことはどうやって知りましたか?

中村:博多の通好みのレコードショップに行って初めて知った(笑)。店頭に飾ってあったんよ、あのジャケがね。

──それはビックリですね(笑)。

中村:思わず買うたよ。本人ってばれんやった(笑)。

──海外での発掘、再評価についてはどう思いますか?

中村:ついに来たかー!! ってな感じやったね(笑)。信昭さんが生きとったら喜んだろうね。「おい、一日再結成しようか!」って言うた思うよ。

──今回THE BADGEの前身にあたる『THE RAIN』の7インチがリリースされ、聴かせていただきましたけど、かっこよすぎてぶったまげました!! こんなに素晴らしいのになぜにお蔵入りだったんでしょうか?

中村:まあ、いろいろ大人の事情やろね。でも、パンツを脱がされたような恥ずかしさが少しあるかな(笑)。

──本人的にはそんなですか(笑)。今聴き直してみていかがですか?

中村:いきのいい、物わかりの悪い、きかん坊達のPUNK MUSICやね!

──まさにそんな音でした。その頃、THE JAMを筆頭にMODリバイバルみたいなものがあったと思いますが、その辺は意識したりしましたか? もちろんBADGEの音楽性はモッズうんぬんのみで片づけられるものではないとは思っております。

中村:うん、ステージの周りはMODSコートを着たカッコイイ若者が多かったね。でもあんまり意識はせんかったかな。

──THE JAMからの影響はどうでしょう。

中村:信昭さんが一番影響受けたと思う。BASSの弾き方やら酔っ払って真似しよったね。顔も(THE JAMのブルース・フォクストンに)どことなく似てきたしね(笑)。

──THE JAMの来日ではオープニングアクトをつとめ、ポール・ウェラーとの対談もやられていますが、印象に残っていることがあったら教えてください。

中村:レコーディングの技を教えてもらったね。何トラック重ねて何のエフェクター使ってとか。ギター一本頂戴っていうたけど、ローンがまだ残ってるからって断られた(笑)。

──当時のBADGEのお客さんはMODSも多かったんでしょうか?

中村:いやいや可愛いお嬢さん達も多かったよ。ただ、信昭さんの前だけは男の子が多かったけどね。

──博多時代は、ザ・モッズやロッカーズとも対バンされていたそうですが、その頃のエピソードもあれば、教えてください。

中村:みんながまだデビュー前のアマチュア時代、「照和」の土曜の昼の部は、ザ・モッズ、ロッカーズと俺らの3バンドにまかされてたんやけど……その3バンドで、お客さんは10人も入らんかった記憶があるね。「なんでやろ?」って、全員で落ち込んだ日々を送ってたよ。

──そんな時代もあったんですねぇー。「めんたいビート」についてはどう思われてました?

中村:THE BADGEは、「めんたいビート」はカヤの外やったから、何のことだかさっぱりわからんかったね。俺らが知らんところで勝手に盛り上がってたというか……。まあ世代は同じやけど、THE BADGEは一匹狼的な存在やったから。

──モッズの北里さんとは同級生で、一緒にバンドを組まれてたんですよね。

中村:北里くんとは高校生の時に一緒にバンド組んでいろんなところで演奏したね。中学の時の担任の先生のところに挨拶に行って、「俺たちプロになりますから!」って宣言したり(笑)。当時、16歳よ! 今ではもう彼は雲の上の存在になってもうたけどね。

Asian Special ProjectとTHE BADGE名義では34年振りの東京でのライブ

──昭二さんは現在、アジアのアーティストの作曲、プロデュースを手がけられているとのことですが、これはどういうプロジェクトなのでしょうか?

中村:ちょっとした機会があってプロジェクトがスタートしました。第一弾は台北のKIRKI(カーキ)という女性シンガーで「BLUE BIRDS」という楽曲です。1月27日に、全世界同時配信が始まりました。このあとも、タイのアーティストとのコラボを予定しています。

──それも楽しみにしてます。さて、久しぶりの東京でのライブですが、東京での生活、特に開催地となる下北沢での思い出などあればお聞かせください。

中村:下北沢によく行ってたのは1stアルバムの『TOUCH』が出た頃やね(1983年)。「トラブルピーチ」っていうロックバーに通って毎晩のようにレコードかけてね。「よかろうが! これ! 俺たちのレコードやけんね」、「絶対売れるけんね~!」って、そこにおる人達みんなに叫んだりして……なつかしかね。

──あそこはたしかTHE BADGEのポスターがあってファンには聖地みたいなところですもんね。最後に、博多でのライブを経て東京でのライブの意気込みを教えてください!

中村:THE BADGE名義での東京でのライブは実に34年振りです。みんなに会えるのを楽しみにしてます。「ONE BOY IN TOKYO」……ONE BOYが久しぶりにこのナンバーを歌いに帰ってくるけんね。待たしたね!

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