憑きもの体験記3「死ぬかと思った。冷たい手だったよ!」|川奈まり子の奇譚蒐集四十

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※こちらの記事は憑きもの体験記2「やがてそれは、ズルズルと足を擦りつけながら、枕もとの方へ接近してきた」|川奈まり子の奇譚蒐集三九 | TABLOからの続きです。

滞在先で起きる奇怪な現象の数々

ウィークリーマンションでは、1人1部屋が割り当てられた。深夜に帰り、入浴を済ませたときには午前1時を回っていた。

眠気が萌すまでベッドに横になって、読書をしようと思った。サイドボードにデスクライトを置いて点灯し、シーリングライトを消して、本を片手に横たわる。

空港の売店で買った娯楽小説の文庫本で、読みはじめるとすぐに物語の世界に引き込まれた。

ページをめくる手が止まらず、あっという間に小一時間が過ぎてしまった。

そろそろ眠らなければ、明日の仕事に差し支える。

もう少し読みたいけれど、今夜はこの辺にしておこう……と、思ったときだ。

前触れもなく、いきなり全身がゾワリと総毛立った。

鳥肌が立つのが先で、次に、頭の中に、まるで映画の一場面が映し出されたように、見知らぬ女の姿が浮かんだ。

長い黒髪を垂らした、若い女だ。白い服を纏っているようだが、洋服なのか経帷子なのか、細部がぼやけていて、よくわからない。

顔も、滲んだようにぼかされている。

それが、ベッドに近づいてきて、こちらに背中を向ける格好で、足もとに腰を下ろした。

顔も着ているものもぼんやりしているのに、髪だけが艶やかで生々しい。

漆黒の滝のように、女の背中を覆って、ベッドカバーまで毛先が届いている。

魅入られてしまったようだ。なぜか、この女から目が離せない――。

アラームに叩き起こされた。

――夢?

前回の経験を思い出し、枕を調べた。しかし血痕などは無く、ベッドカバーに長い髪が落ちていたら……と想像して探してみたけれど、それも発見できなかった。

夢だったのだと思い込もうと努めながら、身支度をして部屋を出た。

ウィークリーマンションのロビーを歩いていると、後ろからタナカさんが追いついてきた。

「待って! 一緒に行こう」

断る理由もない。肩を並べて歩きだすと、いくらも行かないうちに、「あのさ」と向こうから切り出してきて、言うことには……。

「昨日の夜なんだけど、寝入りばなにドアをノックされたんだよ。トントン、トントンって。だからてっきり彩乃ちゃんかと思って……他に部屋を訪ねてきそうな人はいないし……それで、起きて、『彩乃ちゃん?』って呼びかけながら、壁にある電気のスイッチを手探りで押そうとしたら……手があったの」

「手、ですか?」

「うん。たぶん女の人の手。痩せていて、指が細い、冷たい手が、シーリングライトのスイッチの上に被さってたものだから、一瞬だけど、しっかり触ってしまって、『わぁっ!』ってなって……尻餅ついちゃった」

ベッドに這い戻り、蒲団を頭から被って、明け方まで震えていたという。

「死ぬかと思った。冷たい手だったよ!」

さも恐ろしそうに話すのを聞いて、では、自分も、と、昨晩のことを話した。

「同じ幽霊かなぁ? 他の人たちにも何かあったんじゃない?」

訊いてみようということで意見が一致し、休憩のときなどに機会をうかがって、同僚たちに訊ねて回ったところ、

「ノック? 僕のところにも来たよ! それがおかしいんだ。僕は、そのときたまたまドアのすぐそばにいた。だからノックの最中にドアを開けたんだ。チェーンをしたままね。でも、開けたら人の気配も無い。チェーンを外してドアを開けてみたけれど、廊下には人っ子ひとりいなかったんだよ!」

「幽霊だって? じゃあ、あれは夢じゃなかったのかなぁ……。僕の部屋は8階の角部屋なんだけど、硬い床の上をハイヒールで歩きまわるような音が外から聞こえてきてね……。壁の外からだよ? ベランダも無いのに、部屋の壁に沿って、コツコツコツコツ、何周も何周も……。両手で耳を塞いで無理矢理、眠った」

という具合に、怖い体験を語る者が幾人もいたのだった。

さらに、倉庫で作業しているときにも、奇怪な現象に度々、悩まされることになった。

日中は、なんともない。黄昏どきから後に、たとえばこんな目に遭った。

隣のデスクの同僚と2人で打ち合わせをしていたら、後ろに誰か立った。

そこで、「ちょっと待って」と肩越しに声を掛けると、大人しく佇んでいる。

隣の同僚との話が済むと、彼も後ろで待っている人が気になっていたようで、「ごめん、ごめん!」と言いながら後ろを振り向いた。同時に私も振り返ったが、そこには誰もいなかった。

また、深夜になり、居残っていた数人が、そろそろウィークリーマンションに引き揚げようとして帰り支度をしていると、誰もボタンを押していないのに、エレベーターが迎えに来た。

チーンと音を鳴らして、エレベーターの扉が開いたが、箱の中は無人で、ただ煌々と明るいばかりだった。

扉は閉まらず、目に見えない何者かが「開」ボタンを押して、皆が乗るのを待っているように感じられた。

それ以来、夜になると全員、階段で上り下りするようになった。

すべては神社から始まったのだが、陽炎のようなものは、もう現れず、こんどは髪の長い女、あるいは姿を見せない何かが出没しはじめた次第だ。

これは、数ヶ月後、ここ札幌での仕事が片付くまでダラダラと続いた。

東京に向けて出立する前夜、居酒屋に集って打ち上げをした。

長い滞在期間のうちには、地元に住むクライアント側のスタッフとも親しくなっていたので、彼らも招き、大所帯な宴会を開いて盛り上がった。

酒が回ってくると、滞在期間中に頻発した怪奇現象についても話題に上った。

すると、そのうち、地元の仲間は誰ひとりとして、そんな体験はしたことがないのがわかり、「東京から連れてきたんだろう」と指摘される運びとなった。

東京チームにとっては面白い展開ではないが、自分たちが遭遇した幽霊や超常現象とは地元民は無縁だと言われてしまうと、否定できなかった。

――なんだか悔しいなぁ。

何も悪いことをしていないのに、毎晩のように怖い思いをしてきたのだ。

それを、あたかも自業自得のような言われ方をされると、理不尽ではないか、と、むかっ腹が立った。

そのとき、ふと、川越で頭痛をタナカさんに伝染したことを思い起こした。

神社で、陽炎の化け物に取り憑かれて、すぐに激しい頭痛に襲われた。鎮痛剤を服用して眠っている間に、タナカさんが悪夢を見て、同時に頭痛も引き受けてくれた。

タナカさんが頭痛を訴えたとき、こちらはケロリと治っていた。

――この人に、伝染ってくれないかなぁ。

斜め向かいにいる地元スタッフを、ぼうっと見つめて、そんなことを考えた。

翌朝、東京へ向かうチーム一同は、一様に爽やかな表情で、皆、顔色が良かった。昨夜はかなり深酒したのもいたのに、二日酔いになった者もない。

「ゆうべは面白いぐらいスッキリ眠れた!」

「久しぶりに熟睡できた」

口々にそんなことを述べ合っている。

「幽霊も出なかったな」

「不気味な夢も見えなかった」

「憑き物が落ちたっていうのは、こういうことだろうか?」

――これで終わったんだ。ということは、もしかすると伝染せたのかしら。

打ち上げの席で斜め向かいに座っていた地元スタッフのその後が気になりはじめた。もしも、あちらに怪異が移動していたとしたら、罪悪感を覚えないわけにはいかない。

気に懸けていると、その人が、わざわざ見送りに来たのであるが、どうも恨めしそうな目つきを向けてくる。そこで、やはり伝染してしまったのかと予感していたら、案の定そうだった。

「昨夜は、家に帰ってからずっと、わけもなく寒気がして鳥肌が治まらなくて、おまけに家中からベキベキ変な音がしてきて、一睡も出来なかったの! おかしなものを置いていかないでちょうだい! 東京に持って帰って!」

川越八幡宮の伝説

――私は彩乃さんに「それから、どうされました?」と質問した。

彩乃さんは苦笑して、お守りとして持ち歩いていた般若心経の写しをあげたのだと話した。

「それ、私には全然効かなかったんですけど、他にしてあげられることがありませんでしたから。私たち東京組はみんな目を逸らして、その日の午後の便で東京に戻りました」

それからは何も起こらなかったとのことだ。

さて、それでは、彩乃さんたちに憑いていたものの正体は何なのだろう?

実話の王道を狙って、まったく結論を出さないまま終わりにしてしまってもよいのだが、私はしつこい性格なので、性懲りもなくいろいろと調べてみた。

そこで辿り着いたのが、川越八幡宮に残る狐伝説だった。

おもしろいことに、これは、彩乃さんたちプログラマを神社に来させた〇〇百貨店が信心している民部稲荷神社――「相撲稲荷」の別名がある川越八幡宮境内の稲荷社――とも深く関わる言い伝えなのだ。

川越八幡宮の狐伝説は、昭和時代の名作テレビアニメ・シリーズ「まんが日本昔ばなし(TBS)」にも取り上げられたという。

どのような物語かというと――。

《昔、八王子付近の山に猪鼻民部と名乗るお侍が住んでいた。だがしかし、その正体は人間好きな化け狐。あるとき民部は正体を隠して近所の寺の小僧と付き合いを深め、しきりに家に招いては夜更けまで寺に帰さないようになった。不審に思った寺の和尚が小僧に行先を訊ねると、人里離れた山の中に猪鼻様の屋敷があるという。そんな所に武家屋敷があろうはずもないので、和尚には悟るところがあり、「これまでの御礼に饗応するから」と言って小僧を使いに出し、民部を寺に招待する。無論、一計を案じてのこと。しかし供を従えて宴に臨んだ民部が思いのほか好人物(?)で馬が合ってしまった。歓談しながら酒を酌み交わすうちに、相撲の話題で大いに盛り上がり、ついに、民部の家来と寺の小僧に相撲を取らせて興じることに……。家来も化け狐だったから、当然の結果として、翌朝の境内は狐の毛だらけに。和尚は「やはり」と思ったが、立ち去った民部一行の後を追って山に行くと、彼らが物の怪であることを一切咎めず、あらためて深謝し、末永い付き合いを乞うた。民部は和尚の心意気に感じ入り、大いに喜んだ。しかし折悪しく、故あって川越の梵心山に移ることになってしまったのだと述べた。そして「あなた方のことは忘れません。友情の印として、私たちに古くから伝わる打ち身の手当ての術を教えましょう」と申し出て、狐の秘術を和尚に教えると、別れを惜しみ惜しみ、去っていったのだった》

……八王子で少女期を過ごしたせいで、民部に親近感が湧いた私である。

それはさておき、化け狐・猪鼻民部が移り棲むことになった川越の梵心山の所在地というのが、どうやら現在の〇〇百貨店の辺りだったらしいのだ。

そのため、そこには古くから民部稲荷というお社が建っていた。

けれども歳月を経るうちに荒廃してしまい、民部稲荷は川越八幡宮の境内に移された。さらに後の世となり、〇〇百貨店が梵心町(梵心山)で開業する運びになると、同地の民部稲荷跡は撤去されることになった。

しかし、一説によれば、民部稲荷跡を取っ払って社屋兼店舗を建てようとしたところ良くないことが起きたため、〇〇百貨店では、店舗の屋上に改めて民部稲荷の分社を建立し、事業の守護神として大切に祀るようになったのだとか。

と、いうわけで、陽炎のようだったりボーッとした男だったり髪の長い女の姿をしていたりした怪しいものの正体は、狐だったのかしら。

いやいや、川越には他にもまだまだ物の怪や幽霊の言い伝えが存在するから、早計に決めつけるのは如何なものか。結局よくわからない。川奈まり子の奇譚蒐集四〇・連載)

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