「後世に記憶残したい」 佐世保空襲の体験 連載きっかけに長崎新聞に語る

©株式会社長崎新聞社

佐世保空襲の被害を後世に伝えるため記念碑を建てた松瀬さん=佐世保市原分町

 本紙連載記事「記憶をつなぐ 佐世保空襲編」を読んで、佐世保市原分町の松瀬秀俊さん(89)が「記憶を語りたい」と連絡をくれた。14歳の時に空襲に遭い自宅が全焼。被害を忘れないようにと2018年、自宅近くに記念碑を建てた。松瀬さんは「自分が生きている間に後世に記憶を残したい」と話す。
 松瀬さんは8人家族の次男。1939年に母親が病死し、長男は当時ビルマ(現ミャンマー)に出征していたため、家族6人で坂ノ上地区(現原分町)に暮らしていた。
 45年6月28日夜。市街地から離れた同地区で空襲があるとは思わず、自宅で寝ていた。突然空襲警報が鳴り響いた。「空襲ぞ」。父親からたたき起こされ、一家は着の身着のままで近くの防空壕(ごう)に避難した。
 必要な荷物を運び出すため、松瀬さんは父親と2人でいったん自宅に戻った。すると、いきなり「ザー」と音をたてて焼夷(しょうい)弾が天井を突き破り、目の前でさく裂。火の粉が飛び散った。逃げ出して振り返ると、家が燃えていた。2人ともけががなかったのが不幸中の幸いだった。
 夜が明け様子を見に行くと、家は焼け落ちていた。むなしかった。松瀬さんによると、同地区の約50戸のうち10戸が全焼。幸い死者はいなかった。
 数日後、自宅の隣にあった牛小屋を掃除していると焼夷弾の残骸を見つけた。「空襲のせいで自分の家は焼けたんだ」。空襲体験の「証拠」として、残骸を持ち出した。「どうして焼け野原になってしまったのか」。父親がぼうぜんとして友人と交わしていた会話が今も耳に残る。
 自宅を失った経験から家を建てる使命感に駆られ、建築の道へ。55年に念願のマイホームを建てることができた。保存してきた焼夷弾の残骸を玄関に置き、訪れる人たちに当時の経験を繰り返し語った。
 2018年、同じく空襲を体験したいとこと費用を出し合って、自宅近くに記念碑を建てた。空襲体験者が少なくなり、被害が忘れ去られることを懸念したためだ。碑の側面には当時全焼したとされる10戸の世帯主の名前を刻んだ。
 戦後75年の今年も、サイレンに合わせ犠牲者の冥福を祈った。松瀬さんは「本当に悲惨な目に遭った。空襲の記憶が忘れ去られるのは寂しい。これからも平和が続くのを願っている」と語った。

松瀬さんが保管している焼夷弾の残骸