二重被爆者・平島アヤノさん もう二度と原爆はだめ、未来へ歩みを コロナ禍 初の広島参列かなわず

サイレンに合わせ、広島の方向に向かって手を合わせる平島さん=6日午前8時15分、長崎市内

 広島原爆の日の6日、長崎市内の自宅でそっと目を閉じ、手を合わせた。平島アヤノさん(83)。広島と長崎で原爆に遭った二重被爆者だ。脳裏に焼きついた二つの被爆地の惨状。「もう二度と原爆はだめ。平和が一番」。その言葉を何度もかみしめた。
 長崎市大浦川上町(現・川上町)に生まれ、日本軍の飛行予科練習生だった兄がいる広島市へ一家で移り住んだ。
 8歳だった。爆心地から約3.5キロの国民学校のげた箱で履物を手に取った時、閃光(せんこう)が走った。崩れ落ちた建物の下敷きになり、わずかに見える外の光に向かって這(は)い出た。
 負傷した足で帰宅。幸いにも両親、きょうだい4人とも無事だったが、米びつをのぞくと爆風で砕けたガラスの破片でいっぱいだった。家の前を遺体を積んだリヤカーが通っていた。
 10日、一家は着替えも持たないまま身一つで長崎に避難し、入市被爆。変わり果てた町の光景に息をのんだ。黒焦げで性別も分からなくなった人がゴロゴロと転がりながらもがき苦しんでいた。どうしてやることもできなかった。爆心地付近で電柱に見えた“黒い柱”。手を合わせる人を見て、それが立ったまま爆死した人だと気付いた。
 2度の被爆。戦後の人生は苦難が付きまとった。長崎では住む家もなく、父が建てた粗末なバラック小屋に身を寄せた。「布団もなくて。姉と抱き合いながら寝た」
 体の不調も続いた。のどが大きく腫れ、手術。30歳を過ぎてからは卵巣腫瘍を患うなどした。
 あの日、もがき苦しんでいた人はどうなったのだろう。そのことが今も頭から離れない。助かってはいないと理解している。でも、もし生きているのなら聞いてみたい。「家族とは会えましたか」と。そのことを考えるだけで悲しみで胸がいっぱいになる。
 「自分よりもつらい体験をした人は大勢いる」からと、これまで被爆体験を語ることはほとんどなく、3人の息子にも数えるほどしか話してこなかった。だが、きょうだいも全員他界。「もう残された時間は多くない。話して楽になりたかった」。昨年、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に体験記を収めた。でも、やはり思い返すのはつらい。「これが最初で最後」だ。
 今年、初めて広島の平和記念式典に参列予定だったが、新型コロナウイルスの影響でかなわなかった。長崎でも鳴り響いた午前8時15分のサイレン。広島の方向を向き、黙とうした。「こんな経験をするのは自分だけで十分。(これからを生きる人たちには)平和な未来に向けて前を向いて歩みを続けてほしい」。そう願っている。

 


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