「いさぶろう・しんぺい」に乗ります【50代から始めた鉄道趣味】396

※2014年12月撮影

トップ画像は、終点の人吉駅ホームに着いた「しんぺい2号」隣に九州横断特急。

肥薩線、吉松駅の一つ手前の栗野駅で列車交換。

※2014年12月撮影

※オリジナル写真が縦なので加工してあります

栗野駅は、1903年(明治36年)開業。1921年(大正10年)山野軽便鉄道が鹿児島本線(現・肥薩おれんじ鉄道)の水俣駅との間で開業します。軽便鉄道は1922年(大正11年)に山野線に改称。しかし1988年(昭和63年)山野線は、国鉄の特定地方交通線として廃止されました。

隼人駅から乗って来たキハ40-8063。全検後なのか、ずいぶん塗装がキレイです。

※2014年12月撮影

後方からも記録。銘板が見えます。左に駅舎とかつて山野線用だった、現在は使われていない単式ホームがあります。

※2014年12月撮影

11時42分、吉松駅に到着。1903年(明治36年)開業の古い駅です。1909年(明治42年)には吉松~人吉間が開業、門司駅から鹿児島駅までが鹿児島本線になって、途中駅となりました。1927年(昭和2年)鹿児島本線が海側の新線になり肥薩線と改称されます。吉松駅までは鹿児島県でしたが、次の真幸駅は宮崎県です。

※2014年12月撮影

11時49分の上り人吉行「しんぺい2号」には、青春18きっぷで自由席に乗ることができます。。下りは「いさぶろう」になります。

「いさぶろう・しんぺい」は、人吉~吉松間が建設された時の逓信大臣山縣伊三郎と、同区間開業時の鐵道院総裁後藤新平の名前が使われています。

※2014年12月撮影

「いさぶろう・しんぺい」は、2009年(平成21年)に現在のスタイルになっています。車両はキハ140-2125、キハ47-9082、キハ47-8159の3両編成。筆者の乗る自由席はロングシートです。

標高213mの吉松駅を出発。トンネルの多い区間です。

※2014年12月撮影

𠮷松~真幸間の第二山神トンネルで終戦直後の1945年8月22日に悲惨な事故が起きました。上り人吉方面の列車には大勢の復員兵を運ぶために客車5両の他に代用として無蓋貨車8両を連結していました。タダでさえ過重な列車、D51が牽引し、さらにもう1輛のD51が後押しをしましたが、戦時下の酷使のまま整備の行き届いていない蒸気機関車、粗悪な石炭という悪条件が重なり列車はトンネル内で勾配を登り切れず立ち往生してしまいました。代用の無蓋貨車には車内放送がなく、トンネル内の煙にむせかえった復員兵たちは真っ暗なトンネルを元来た方向に歩いて逃げ始めたのです。そこに登り切れないためにバックしてきた列車。狭いトンネルには逃げ場が無く、当時のトンネル内は燈火が無く暗いために状況が分からないまま、ようやく戦地から命からがら復員した人々が無惨に轢かれ、53名が死亡。

「いさぶろう・しんぺい」車内でもこの悲劇が伝えられました。

スイッチ・バックの駅、真幸駅に到着。標高380m。吉松駅から7.8kmで167mを上ってきました。この区間の平均が21パーミルです。そりゃ、蒸気機関車にはキツい。運転士さんは進行方向と逆の運転台に移動、進行方向が変わります。駅名標にある様に宮城県えびの市に駅はあります。

※2014年12月撮影

「しんぺい2号」は7分間停車。アテンダントさんが記念のボードをわたして記念撮影のサービスが行われています。横は「幸せの鐘」。

※2014年12月撮影

これが「幸せの鐘」。

※2014年12月撮影

ホームはスイッチ・バックの引き込み線です。終端側にはこの様な案内板。

※2014年12月撮影

真幸という駅名に反して、駅には災難が降りかかっています。1972年(昭和47年)豪雨によって駅の裏山が崩壊。土石流が駅と集落を飲み込んだのです。死者4人を出し、住宅57棟が流失という凄まじい被害でした。土石流は肥薩線を切断、駅構内を土砂で埋めたのです。駅と肥薩線は復旧されましたが、家屋を失った集落は移転してしまったことで駅周辺は無人地帯になりました。

ホームにはこの土石流で流れ込んだ約8トンの巨石がそのまま残されています。

※2014年12月撮影

1911年(明治44年)開業当時から使われている木造駅舎。

※2014年12月撮影

信号が青になりました。右が上ってきた吉松方面。奥の右に勾配を上っていきます。

※2014年12月撮影

標高536.9mの矢岳駅まで7.3km。平均で21パーミルの勾配が続きます。

※筆者は既にコラムなどで青春18きっぷ鉄道旅の写真を度々使用しています。重複していますが、御容赦ください。

※価格などは2014年当時のものです。

(写真・文/住田至朗)

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