空手・形女子の日本のエースの清水希容(しみず・きよう、ミキハウス)が競技人生のターニングポイントとなった高校、大学時代について語った。(聞き手、共同通信=村形勘樹)
―飛躍を遂げた時期だった。
そうですね。高校、大学は競技人生の節目となった大切な時期だった。厳しい環境だった高校時代は『なくてはならない3年間』で私の土台。大学では、自分の意志をどれだけ貫けるかが試された。
―高校は強豪の東大阪大敬愛高を選んだ。
母と「日本一を取る」と約束して入学した。高校3年間で日本一になれなかったら学校を辞めて働くくらいの覚悟を持っていた。
―得られたものは。
精神面、肉体面、いろんな面で学ばせてもらった。上下関係が徹底され、中学までとは雰囲気は全く違った。先輩の前では笑ってはいけないなど、細かいルールがあった。1年生の時は何もかも先輩よりも早くやらないといけないので、毎朝5時10分の始発電車に乗り、朝練のために道場の掃除をしていた。
―体も成長した。
入学した頃は体重43キロほどで「体重を増やしなさい」というのが先生からの最初の指示。「増やさなければ、メンバーに入れられない」という感じだったので、必死だった。10キロ増を目標に、授業が終わるごとにおにぎりなどを食べていた。
―徐々に手応えをつかんできたのは。
2年の時、全国高校総体で3位に入った。ただ、準決勝で集中力を欠いた内容で、先生に「情けない試合」と活を入れられた。それが節目となる大きな出来事だった。
―気構えが変わった。
先生からは「試合前から全然集中できていなかった」と言われた。それから、試合の日の自分を振り返るようになった。起床して何を考えていたか、バスに乗っている時はどんな行動をしたかなど全てをノートに書き出し、「こういうことはしては駄目なんだ」と失敗から学んでいった。
―最終学年で初の日本一に。
3年の時は、両親への恩返しという一心で演武して優勝できた。失敗と成功、さまざまな体験をした3年間だった。
―さらなる高みを目指して大学へ。
慕っていた先輩の後を追って関大に進んだ。全国高校総体で優勝した経験から、自分がどこまで上にいけるのかを試したい気持ちが強かった。高校時代と違い、練習メニューも全て自分で考える自主性が尊重される環境。一方、空手以外の楽しみは、一切なかった(笑)。
―同世代の友人たちをどう見ていた。
おしゃれやお出掛けを楽しむ友人をうらやましく思う時もあったが、私は「全てを空手にささげる」と決めていた。練習時間を確保するために授業を組んで、授業の合間も部室などで練習していた。
―新たな取り組みはあったか。
大学のトレーナーにお願いしてメニューを組んでもらい、ウエートトレーニングを始めた。当時、空手部では珍しかったが、自分がやり始めて他の部員もやるようになっていった。土台がしっかりないと安定感は出せない。下半身を意識的に鍛えるようになり、演武がすごく変わってきた。
―大学3年の時に世界選手権で優勝した。
決勝の「あの舞台」が病みつきになった。大学までで空手はやめて子どもの頃からの夢だった警察官になろうと思っていたが、もう一度世界一を取りたいという思いになった。形には人生観や経験がにじみ出る。生半可な気持ちで立てる舞台ではないので、後悔がないよう自分の道を歩もうと思っている。
―学部ではどんな勉強をしていた。
文学部でアジア文化を専修し、空手の勉強をしていた。卒論も空手をテーマに、古い文献に当たったりして空手の歴史を一から調べた。
―空手一色だった青春時代にできなかったことを引退後はしてみたい。
試合が終われば次の目標のことを考える性格。練習を休めば罪悪感を覚えるほどで、卒業旅行も行かなかった。現役の間は我慢していることもたくさんある。引退したら空手以外の息抜きをできたらいいなと思う。
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清水 希容 空手・形女子の東京五輪代表。小学3年で空手を始め、世界選手権は14、16年に優勝、18年は2位。全日本選手権は13年から7連覇中。アジア大会は14、18年に制した。東大阪大敬愛高、関大出。ミキハウス。160センチ、56キロ。26歳。大阪府出身。
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