1987年のエイズパニック!未知の恐怖とザ・スミスのラストアルバム 1987年 9月28日 ザ・スミスのラストアルバム「ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム」が英国でリリースされた日

1987年、ザ・スミスの解散とエイズパニック!

1987年はバブルに向かってまっしぐらの時期だが、個人的には暗い年… という印象が強い。大好きなザ・スミスが解散した年だからかもしれないが、それだけではない。当時は得体の知れなかった “エイズ” という病気にも原因がある。

大学生の頃、献血センターでアルバイトをしていた。パック詰めされ、成分分離された献血に、血液型別のラベルを貼っていく仕事だ。最初は血の匂いに気持ち悪くなったりもしたが、すぐに慣れた。

1987年1月に、忘れられない事件が起こる。その日、いつものようにバイトに出たのだが、献血の量が異様に多い。普段の2、3倍はあったはず。残業がほとんどない仕事だったが、この日ばかりは2時間ほど居残らないわけにはいかなかった。

なぜ、こんなことに?

エイズの知識は浅かった… 献血を血液検査代わりに利用しよう!

原因はその日の報道にあった。神戸で性交渉による女性のエイズ患者が死亡したのだ。ご存知のとおり、献血をすると血液検査の結果も送られてくる。そこで献血を血液検査代わりに利用しようと人々が殺到した、というワケだ。エイズには特殊な検査が必要で、献血の際の検査では判明しないとも知らずに。

当時はそれほど一般のエイズ知識は浅かった。最初にこの病気の名がささやかれた頃は、ゲイの男性しか感染しないと思われていたが、後に輸血患者への感染が報告され、性交渉による女性への感染も判明した。1987年には「粘膜の接触で感染するので気を付けろ」という認識がソコソコ広まっていたが、それでも怖い病気には違いない。

そんな中で、献血パックに触れるのである。手袋はしていたものの、パック越しに触れることさえ、正直ためらわれた。パックを落とすと破損することもあり、返り血を浴びる可能性もないわけではない。何よりイヤだったのは、危険な性行為に “身に覚えのある” 人たちの血を扱うことだ。

本来、献血は善意によって成り立つものだが、この日は悪意しか感じなかった。“人間ってエイズよりも怖い” と思った瞬間、この年ほど嫌世的になったことはない。

ショッキングだったスミスのナンバー “ディスコ・ダンサーの死”

そんな自分の空気にザ・スミスのラストアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』はフィットした。リリース時、すでに彼らは解散を表明していた。その事実だけで気を滅入らせたが、内容も決して明るくはない。死臭の漂う曲がちらほらと見受けられるが、決定的だったのは「デス・オブ・ア・ディスコ・ダンサー」というナンバー。歌詞が、とにかくショッキングだった。

 ひとりのディスコ・ダンサーの死  できれば関わりたくない  愛と平和と協調?  とっても素敵だ  来世ならね

おどろおどろしいインストゥルメントに乗ったモリッシーの歌声は呪っているようにも、達観しているようにも、呆れているようにも聞こえる。

あれから30年以上を経て、社会との折り合いを不器用ながらつけているし、ニック・ロウのおかげで「ピース、ラヴ・アンド・アンダスタンディング」を信じたい気持ちにもなる。エイズに関する正しい知識も身につけた。しかし “ディスコ・ダンサーの死” は時々、亡霊のように現われては、世の中の汚くて怖い一面を思い出させてくれる。

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※2018年11月27日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: ソウママナブ

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