灰になった110万人「死者の名前見つけたい」 今も続く保存作業、虐殺の歴史後世に アウシュビッツ生存者の消せない記憶(3)

アウシュビッツ強制収容所(第1収容所)の有刺鉄線と監視塔。現在は博物館として公開されている=1月、ポーランド・オシフィエンチム(共同)

 窓の外に有刺鉄線が走る作業室は静けさに包まれている。白衣姿のスタッフが皮の古い旅行かばんを手作業で修復し、大人から幼児用まで当時の色を保つ大小の靴も修復を待つ。いずれもアウシュビッツ強制収容所の収容者の遺品だ。犠牲者は110万人以上。9割をユダヤ人が占めるが、大半は名前すら記録されず、死の詳細は分かっていない。かつての収容所施設に設けられた作業室では今も、膨大な遺品の保存や犠牲者の身元解明など虐殺の歴史を後世に伝える地道な作業が続いている。(共同通信=森岡隆)

アウシュビッツ強制収容所(第1収容所)として使われた建物で、移送されてきた人々のかばんを修復する博物館のスタッフ=1月、ポーランド南部オシフィエンチム(共同)

 ▽犯罪の証拠

 「紙の資料から収容所の建物の部材まで、あらゆるものを保存する」。当麻さくらさん(37)=神戸市出身=が話す。ナチスが1940年、占領下のポーランド南部の都市オシフィエンチムに開設したアウシュビッツ。第2次大戦後、施設跡はポーランド国立のアウシュビッツ・ビルケナウ博物館として運営され、見学者受け入れのほか、資料の保存や修復などを続けてきた。当麻さんは博物館に勤務する約80人の保存担当職員の1人だ。

アウシュビッツ強制収容所(第1収容所)として使われた建物で、収容者の手紙の保存作業をする当麻さくらさん=1月、ポーランド南部オシフィエンチム(共同)

 犠牲者の服や靴、ナチス親衛隊(SS)隊員が撮った写真など10万を超す資料を所蔵し、スタッフは一点一点に保存処置を施す。ユダヤ人たちが収容されたれんが造りのバラックも保存のため解体し、個々の部材を薬品で処理する。劣化対策はかつて電流が流れていた収容所の有刺鉄線や鉄線を支えるコンクリートの柱にも及ぶ。戦後75年を経て生存者は減り続け、間もなく戦後世代が悲劇を語り継ぐ時が来る。その時、こうした資料が実相を後世に伝える直接の証拠となるからだ。

アウシュビッツ強制収容所(第1収容所)の施設として使われた建物で、移送された人々の靴を見る当麻さくらさん=1月、ポーランド南部オシフィエンチム(共同)

 博物館には今も収容者ゆかりの品が持ち込まれる。当麻さんは日々、収容者の遺品に接し、傷やしみの位置も覚えてしまうという。「手を加えるのではなく、あくまで75年前と同じ本物の状態を保つ。この作業に終わりはない」

 ▽消えた人々

 アウシュビッツでは誰がどのような最後を遂げたのか、大勢の死の詳細が不明だ。クシシュトフ・アントンチュクさん(52)ら職員12人は100万件以上の記録が入力された博物館の「収容者データベース」などを基に、犠牲者の身元を1人でも多く明らかにしようとしている。

 欧州各国からアウシュビッツに移送されたユダヤ人は到着直後、7割以上がガス室に送られ、残りは強制労働に就くために名前などを登録された。到着直後にガス室へ送られた人は約90万人。SSはその名前を記録せずに遺灰を近くの川や穴に捨て、人々の痕跡は消えてしまった。一方、約40万人が登録されたが、飢餓や病気などで半数がその後、アウシュビッツで死亡した。

 大戦終盤の44年末以降、ソ連軍がアウシュビッツに迫り、SSは犯罪の証拠を消しに掛かった。膨大な記録文書の9割以上を廃棄し、アウシュビッツ第1収容所から約3キロ離れた広大なアウシュビッツ・ビルケナウ収容所(第2収容所)では四つの大型ガス室の破壊に着手した。最後に残ったガス室を爆破した翌日の45年1月27日、ソ連軍がアウシュビッツに到着し、収容所を解放した。第1収容所とビルケナウなどには衰弱した約7千人が残っていた。

 「アンネの日記」を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクの父オットーもこの時解放された。だが、アンネは既にビルケナウからドイツ国内の強制収容所に移送され、現地で2月に死亡したとみられる。

 ▽巨大なパズル

 犠牲者の特定には困難がつきまとう。記録の大部分が失われ、現存するものも姓名のどちらかが欠けるなど不完全だったり、判読不能だったりする場合が多いからだ。欧州各国から移送された収容者の名前が実際とは異なるつづりで登録され、混乱を招くケースも目立つ。

 「だから戦後75年を経ても、パズルのピースを埋めるような作業を続けている」とアントンチュクさん。スタッフは記録のデータ化や米国やイスラエルなど国外の公文書館などとも協力して犠牲者の情報を集め、登録された約40万人の6割の名前をこれまでに特定した。

アウシュビッツ強制収容所(第1収容所)の施設として使われた建物で、データベースを基に犠牲者らの身元特定を進めるクシシュトフ・アントンチュクさん=1月、ポーランド・オシフィエンチム(共同)

 ▽追悼作業

 ドイツへの抵抗運動に加わり、捕まったスタニスワフ・ヤシンスキという20代のポーランド人男性がいた。アウシュビッツに近い都市クラクフから移送され、戻らなかったことだけが分かっていた。アントンチュクさんがロシアから提供されたSS作成の収容者の死亡証明書を調べていた際、アダム・ソスナという男性の書類に行き当たった。死亡日は43年1月。出生地などの個人データがヤシンスキと重なり、本人がソスナの偽名を名乗っていたと思われた。

 ヤシンスキの家族から逮捕前の写真を受け取り、現存する4万枚の収容者の顔写真からこの時期、クラクフ経由で到着した人々の写真と一枚一枚照らし合わせていった。囚人番号77587。ついに同じ人物が見つかった。データベース上で番号をたどると、死の2カ月前に着いたことが判明した。遺体は焼却されていた。

ドイツ語で「アルバイト・マハト・フライ(働けば自由になる)」と表示されたアウシュビッツ強制収容所(第1収容所)の門=1月、ポーランド・オシフィエンチム(共同)

 今もアウシュビッツの犠牲者の子や孫たちが肉親の消息を求め、博物館に連絡してくる。SSにとって収容者は番号にすぎなかったが、親族にとってはかけがえのない存在だ。

 「110万を超える人々がここで犠牲になり、遺灰を捨てられた。1人でも多くの名前を見つけ、人生の最後の空白を埋めたい。名前を見つけるのは彼らを追悼することだと思っている」。アントンチュクさんが力を込めた。(終わり)


【アウシュビッツ生存者の消せない記憶】

(1)大人も子供も「みんなガス室に向かった」 戦後75年、ユダヤ人女性が見た無数の死https://this.kiji.is/691159840221578337

(2)憎しみの矛先、再びユダヤ人に ナチスの惨劇「また起こり得る」https://this.kiji.is/691164939247420513?c=39546741839462401

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