『だまされ屋さん』星野智幸著 息苦しさから逃れるための一陣の風

 会社の地下にある店に出前を頼み、職場の共有テーブルで食べながらテレビでサッカーの試合を見ていた。ふと気づくと、隣の席に私の夕飯を運んで来てくれたおっちゃんが座り込み、観戦している。ぎょっとしたけれど、すぐにまたサッカーにのめり込み「やった」「行け!」と叫ぶ。おっちゃんも一緒に反応していたが、気づくといなくなっていた。ああ、おっちゃんもサッカー好きなんだなあと思いながら自席に戻り、原稿の続きを書いた。

 社屋が今とは違う場所にあった20年ほど前のことを思い出したのは、会社のセキュリティーが一段と厳しくなったからだ。社員の安全を守るためというのは正しいのだろうが、少しだけ息苦しい。正しさというのは時に、息苦しさを伴っている。

 ついでに書いてしまうと、子どもの頃に住んでいた団地には、近くに「のぞきのお兄ちゃん」が住んでいたらしい。あるとき、母が誰かと噂話をしているのが耳に入ったのだ。「何がおもしろいんだか、夜、その家の人たちが川の字になって寝ているのをただじーっと見ていたんですって」

 子どもの私は「へえ~」と不思議に感じただけで、それほど嫌悪感を抱かなかった。なぜだろう。私自身も近所の友達の家に入り込み、本を借りたりおやつを食べさせてもらったりしていたからか。

 そんな過去の日々が、星野智幸の小説『だまされ屋さん』を読んだことで無性に懐かしくよみがえってきた。それはつまり、世の中の閉塞感が強まっているということなのだろう。特に新型コロナウイルス禍の中で感じる同調圧力がつらい。マスクをずっとしているせいかもしれないが「息苦しい」という言葉が実にぴったりで、だから本書に救われた思いがする。

 物語は、70歳を過ぎてひとり暮らしをしている秋代の家に、ある若者が訪れる場面から始まる。「どちらさま?」「あ、ぼくです」。笑みをたたえた若者は、するりと家に入り込む。いかにもあやしい。

 若者の名前は未彩人(みさと)。秋代の娘、巴(ともえ)の名前を出して「巴さんの家族になろうとしているところなんです」と言う。秋代は違和感を覚えつつ、未彩人の話術に引き込まれていく。

 未彩人が台所に入るのを許してカレーを作ってもらい、それを食べる。家族についての愚痴を聞いてもらう。未彩人が「今晩、ここに泊めてもらってもいいですか」と言いだす。すっかり未彩人のペースだ。未彩人は新手の詐欺師か、それとも―。

 夫を亡くした秋代は、3人の子どもとその家族との関係も切れてしまった。それはなぜか。

 長男の優志(やさし)は正義の人だが、妻の梨花を理解という名の支配で追い詰めている。次男の春好(はるよし)は借金を繰り返して妻の月美を泣かせている。

 米国で娘の紗良(さら)を産み、帰国したシングルマザーの巴は、紗良の子育てに悩んでいた。でも夕海(ゆうみ)という女性が半年ほど前から家に入り込み、家族同然に暮らすようになってから、紗良が元気になってきた。

 そんな巴の家に梨花が押しかけてくる。さらに月美も子連れでやってくる。修学旅行の夜のような本音トークが始まる。徐々に問題が浮き上がってくる。

 物語の後半で、やはり巴の家を訪ねた春好が言う。「うちの家族、みんな影響を及ぼし合って、それぞれ歪んでるのかもしんないよね。(略)丸いおまんじゅう十個とかをさ、小さすぎる四角い箱に強引に詰め込んだら、形がいびつになるよね。そんな感じかな」

 おまんじゅうを一度箱から出して、丸い形に戻すにはどうしたらいいか。この小説には、ヒントとなるエピソードが詰まっている。

 その一つがサッカー、いや、フットサルである。終盤でフットサルの場面が出てくる。ボールを追いかけて蹴るという動作が基本のこのスポーツは原初的で、老若男女が参加できる。その融通無碍さが生きてくるのだ。

 読み終えて日常に帰れば、息苦しさは変わらずにある。それでも一陣の風に吹かれたような気分を味わった後には、少しだけ力が湧いてくる。

(中央公論新社1800円+税)=田村文

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