高島秋帆の修業ひもとく 長崎学公開学習会

高島流砲術が形成された過程を解説する梶教授=長崎市、長崎歴史文化博物館

 長崎学ネットワーク会議の公開学習会が、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館であり、横浜薬科大の梶輝行教授が「19世紀長崎の対外警衛と高島秋帆の事績」と題して講演した。
 長崎の町年寄で砲術家の高島秋帆(1798~1866年)が西洋砲術を取り入れた高島流砲術を完成するまでの過程や、秋帆の修業などについて、日蘭の史料に基づく研究成果からひもといた。
 島原・天草の乱以来、幕府は城攻めの方法として砲術に関心があり、秋帆以前からオランダ商館に照会をするなどして西洋軍事技術への研究が進められたという。19世紀に異国船の来航が相次ぐようになると、ますます関心が高まった。
 長崎警備のため、地役人にも砲術、武術を習得させようと、幕府は和式砲術・荻野流砲術の指導者を長崎へ派遣。秋帆の父と高木道之助が皆伝を受けた。
 梶教授は父と共に高木が秋帆へ大きな影響を与えたと指摘し、また秋帆とシーボルトらオランダ商館員との関係についても紹介。「田上の合戦場で砲術演習をして、火薬量など膨大な研究データを取り、それらを秋帆の下に集まった人が克明に記録していることが近年分かってきた。秋帆は西洋砲術を出島のオランダ商館で習ったという単純な問題ではなく、すごい研究努力をしていた」などと語った。

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