「サッカーコラム」記憶に刻まれたもう一つの「神の手」 誰よりもボールを愛したマラドーナ逝く

1986年W杯メキシコ大会で優勝し、トロフィーを掲げるアルゼンチンのマラドーナ=メキシコ市(AP=共同)

 試合後の記者会見に臨む際に、ペットボトルの水で口を潤す監督は多い。しかし、その人は全く違う行動をとった。見るからに高価そうなスーツに身を包み、耳にはダイアのピアス、蓄えられたあごひげには白いものが目立つ。いわゆる、ナイスミドルだ。

 ところが、紳士然たるこの男性は席に着くなり予想外の行動をとった。取り出したリンゴを、おもむろに丸かじりし始めたのだ。長らくサッカー取材に携わっているが、ここまで予想外の行動をする監督は初めて見た。そして、思い浮かんだのは「ファンタジスタ過ぎる」の一言だった。

 この人、つまりマラドーナだけに許される感想だった。

 2010年6月12日、南アフリカのヨハネスブルク。ラグビーの聖地であるエリス・パークで、初めてスーツを着たディエゴ・マラドーナを見た。監督としてマラドーナにとってのワールドカップ(W杯)デビューとなったナイジェリア戦は異様な雰囲気に包まれていた。

 試合前だけでなく、試合中も多くのカメラマンがピッチではなくベンチのマラドーナにレンズを向けていたのだ。試合にはメッシも出ていた。それでも多くの報道陣は、16年ぶりにW杯の舞台に戻ってきたアルゼンチンの「永遠の神童」に心を奪われたのだ。

 エリス・パークのスタンドは、ピッチとの距離がとても近い。目の前にいるマラドーナをつぶさに見ていると、あることに気づいた。彼は「ボールを愛している」のだ。

 それがよく分かったのは、ボールがタッチラインを出る瞬間だった。コーチングエリアから出てはいけないはずのアルゼンチン代表の監督は、ボールボーイを差し置いて自分の「おもちゃ」を拾いに行く。そして、左足で2、3回タッチして、選手に渡すのだ。

 南アフリカではアルゼンチンというよりも、マラドーナの監督姿を4試合見た。それがマラドーナを生で見る最後になるとは思わなかった。誰よりもボールを愛し、ボールに愛された「神の子」は、いまごろきっと天国でもボールと戯れているのだろう。

 現役を終えてもマラドーナはいつも人気者だった。06年のW杯ドイツ大会。6月24日にライプチヒで行われたアルゼンチン対メキシコの試合会場に行くと、記者席の4列前にマラドーナが座っていた。

 取材現場では冷静さが求められる記者であっても、特別な選手を前にはミーハーになってしまう。サインをもらう記者で、マラドーナはあっという間に囲まれてしまった。筆者もノートを用意して近づこうとしたが、ディエゴの前にガードマンが立ちふさがった。彼の周辺には常に屈強な守備者が“カテナチオ”を敷いている。

 ディエゴ・マラドーナ―。初めて、その存在を知ったのは、1979年に日本で行われたワールドユースの2カ月ぐらい前だったと思う。専門誌が発行した大会ガイドブックの最後のカラーページに一人の選手が写っていた。

 アルゼンチンは前年の78年に自国の開催したW杯で初優勝を飾っていた。大会MVPと得点王に輝いたのはマリオ・ケンペスだ。そのエースと同じ背番号「10」を当たり前のようにつけた18歳の少年が、欧州遠征ですごいことをやってのけたというのだ。

 現在では想像もできないが、当時の通信手段は乏しく、世界の情報はかなり限られていた。15歳11カ月でプロデビューしたマラドーナは77年2月16日のハンガリー戦に16歳で代表デビューしている。翌年のW杯アルゼンチン大会の最終メンバー40人にも残っていた。しかし、セサル・ルイス・メノッティ監督は「フィジカル面で幼かった」という理由で最終メンバーから外した。それが世界に知られることを遅らせた。

 その意味で79年初夏に行った欧州遠征は、アルゼンチンが誇る神童が名実ともに世界にデビューしたといえる。6月2日、スコットランド最大の都市グラスゴーにあるハンプデン・パーク。前年のW杯出場メンバーを多くそろえるスコットランドを相手にマラドーナは魔術のようなプレーを披露し相手を手玉に取った。わずか1試合だけで見る者をとりこにし、世界がマラドーナを認知した。

 3―1の勝利。マラドーナはこの試合で1ゴールを記録した。残り2点を挙げたのはレオポルド・ルケ。約40年後、マラドーナが死ぬ直前に受けた脳の血栓を取り除く手術を執刀した医師の名前が、W杯優勝に大きく貢献した英雄と同じだったというのは、何かの偶然だろうか。

 その後、マラドーナが見せた活躍についてここで細かく説明する必要はないだろう。良く目にする「メッシとマラドーナ、どっちがすごいか」。これも愚問だろう。マラドーナが現役だった時代、プレスはいまに比べれば緩くスペースがあった。ただ、相手の腹にスパイクシューズのポイントをたたき込んでも、必ずしも退場にはならない時代だった。だからこそ、現在の選手以上に相手と接触しない特別な「間」を身に付けていた。

 このマラドーナとセンターバックとして4度対戦した経験のあるのが、現在はJ2京都で強化育成本部長を務める加藤久氏だ。堅い守備を誇った元日本代表のキャプテンは、天才児への印象を次のように語っている。

 「体を触らせてくれなかった。だから接触したという印象がほとんどなかった。パスにしても、出すときはどこかのタイミングで出し所を必ず見るはずだけど、マラドーナはいつ見ているのかがまったく分からなかった」

 加藤氏が出場した82年1月24日のボカ・ジュニアーズ戦で、マラドーナは途中交代をした。当時、専門誌でバイトしていた筆者は神童を間近で見ようとピッチレベルに降りた。当時は選手と報道陣の導線も曖昧だったのだ。

 自分の横を通り過ぎようとするマラドーナ。反射的に僕はマラドーナを触ろうと手を伸ばした。次の瞬間、手は専属のガードマンにたたき落とされた。その音に気付き、振り向いたディエゴは笑いながら左手を差し伸べて僕の手にタッチしてくれた。

 指先だったけれど…。

 筆者にとっての、思い出に残るもう一つの「神の手」。それはマラドーナが、アステカ・スタジアムのイングランド戦で見せた、世界を騒然とさせた「神の手」より4年前のことだった。

岩崎龍一(いわさき・りゅういち)のプロフィル サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はロシア大会で7大会目。

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