「誰のものか」突き詰め700万部 今は定番、実は革新的 絵本「いないいないばあ」

絵本で初の発行700万部超えを達成した「いないいないばあ」の表紙

 昨年11月末に発行部数が日本の絵本で初めて700万部を突破した「いないいないばあ」(童心社)。半世紀以上にわたり、赤ちゃんだけでなく大人も笑顔にし続けてきたこの絵本には、つくり手たちの赤ちゃんへの強い思いが込められている。絵本など児童書の取材を担当している記者として、改めて魅力に迫りたい。(共同通信=辻将邦)

 ▽定番

 記者にも5歳と8歳の子どもがいる。これまでたくさんの絵本を読み聞かせてきたつもりだ。しかし正直に打ち明けると、これまで「いないいないばあ」にはあまり関心を寄せてこなかった。「定番」過ぎたのだ。書店の絵本コーナーに行けば、カラフルでおしゃれな絵本や、最新の科学的な研究に基づくとうたう絵本がずらりと並ぶ。そんな中、自分が幼い時からそこにあり続けるこの絵本はもはや景色の一部。「やたらと表紙のクマと目が合う気がするなあ…」と思いはしたが、「かわいい!」と感じたことはなかったし、もっと言えば「地味だし、古くさい」とさえ思っていた。

 そんな考えが変わったのは、別の取材で訪れた「ちひろ美術館・東京」(東京都練馬区)で、この本の絵を手掛けた画家の故瀬川康男さんの企画展を見た時だ。絵本作家として国際的に評価される瀬川さんだが、キャンバスなどに描くタブロー作品にも積極的に取り組んだ。展示されていた「観音像」や「不動明王像」は思わず拝みたくなるほど慈愛に満ち、平家物語をドラマチックに描いた絵本の原画の迫力に圧倒された。そこに掲示された年表に「いないいないばあ」と記されているのを見て、自分の中で初めて、この鬼才と絵本がつながった。

 ▽革新的

 「いないいないばあ」は、1967年に童心社から「日本初の本格的な赤ちゃん絵本」として出版された。世界各地で見られる赤ちゃんとの遊び「いないいないばあ」をモチーフにしており、手で顔を隠したクマや猫が、ページをめくると「ばあ」と現れる。

「いないいないばあ」(松谷みよ子・文、瀬川康男・絵、童心社)より。左上→右上→左下→右下の順で話が進んでいく

 「0歳からの絵本をつくりたいの。0歳からの文学があると思うの」。童心社の初代編集長・稲庭桂子さんから依頼を受けた児童文学作家の松谷みよ子さん(いずれも故人)が制作を決意。自身も子育て中で「ありきたりの絵本を与えるのに抵抗があった」という松谷さんたちは「赤ちゃんの文学」を模索した。

 絵を担当した瀬川さんも「赤ちゃんには一番立派なものを与えなければいけない」という考えの持ち主。何度も一から描き直し、試行錯誤を繰り返したという。出版されると「赤ちゃんが本当に笑う」と評判を呼び、版を重ねた。

 原画を所蔵する「ちひろ美術館」の主任学芸員・上島史子さんによると、物語に挿絵が付いただけの「絵本」が主流だった当時では珍しく、装丁家の辻村益朗さんをブックデザイナーに起用。赤ちゃんは繊細で淡い色も認識している、という医学的知見を取り入れ、瀬川さんとともに柔らかな印象に仕上げた。赤ちゃんは鮮やかな色や強い線を好むという従来の常識を覆す挑戦だったという。

 文字の大きさや配色にもこだわり、上島さんは「普段やっている遊びをそのまま絵本にした革新的な試みで、日本における『ファーストブック』の先駆けに位置づけられる」と評価する。

 その話を聞いて思い浮かんだのは、やや大げさかもしれないが「iPhone(アイフォーン)」だ。今の子どもたちにとっては身近にあって「当たり前」のアイテムかもしれないが、世界に初登場した十数年前は、世界中の人たちが相当な衝撃を受けたことだろう。発売当時の「いないいないばあ」にもそんなインパクトがあったのでは、と想像した。

 ▽飽きにくい

 科学的にも裏付けがあるのだろうか。乳幼児期の脳と心の発達が専門である京都大の明和政子教授に聞いてみた。

 明和教授によると、赤ちゃんの笑いは物事が予測通りに起こることで、安心して生まれるのだという。題材となった「いないいないばあ」という遊び自体もその性質をうまく利用したものだ。子が笑うと親も育児の手応えを感じられるため、良好な親子関係を築く助けになってきた。ただ、赤ちゃんは刺激の強いものに注意を向ける一方、とても飽きやすい。遊びの「いない―」も飽きられがちだ。

 明和教授は「飽きにくい仕掛け」で絵本化したのが同書だと指摘する。特徴として(1)絵本全体の色彩は刺激が少ないが、動物の目は白黒でコントラストが強い(2)ページが変わっても視線を動かさずに済む絵の配置になっているので、赤ちゃんへの負担が少ない(3)声に出して読むだけで、誰もが自然に赤ちゃんの注意を引くことができる文章―などを挙げる。

 「赤ちゃんが不安を感じず、程よくシチュエーションが変わる」と明和教授。これは他のロングセラー絵本にも通じそうだ。そういえば「おおきなかぶ」(福音館書店)や「だるまさん」シリーズ(ブロンズ新社)も同じ構造だと膝を打った。

 また、絵本ならではの特徴として、膝に抱いて読むなど身体接触を伴うので、親子双方にとって心地よい体験になるという。

 ▽赤ちゃんの文学

 改めて赤ちゃんの反応を確かめたくなり、埼玉県三芳町の町立中央図書館の読み聞かせ会をのぞかせてもらった。

 「いないいないー」。司書が投げ掛ける言葉に応じ、男の子が「ばあ!」と大きな声で立ち上がる。他の赤ちゃんたちも絵本の動物たちにくぎ付けだ。手足をバタバタさせて喜んでいる。1歳の次男を連れて参加した4児の母親は、上の3人の子どもたちにも「いないいないばあ」を読み聞かせてきたという。「最初は本をめくったり、かんだりするだけだった子が、『ばあ』と言うようになると成長を感じます」とうれしそうに話してくれた。

埼玉県三芳町の図書館で行われた絵本の読み聞かせ会。司書が「いないいない~」と言葉を投げ掛けると、手前の男の子が「ばあ!」と大きな声を上げ立ち上がった=2020年11月

 「いつの時代でも子どもたちの反応は変わりません」。そう話すのは「絵本の本」などの著作があり、保育士としても長年、この絵本を読み聞かせてきた中村柾子さんだ。「大人に目が向けられているのではなく、誰が読むかということにきちんと向き合ってできた本です」

 文章を担当した松谷さんは「赤ちゃんの文学」があると確信していた。後日、冊子で絵本制作の苦労を打ち明けつつ、こう記している。「赤ちゃんと同じリズムを呼吸し、生きる感動を共感するところから赤ちゃんの文学は生まれるのではないだろうか」

 このようなつくり手の思いは、きちんと読み手に届いているのか。

 子ども向けの本と大人の本の違いは、読み手(子ども)と買い手(大人)が別であることだ。これまで子どもに本を買ってあげる際、自分はどんな基準で本を選んでいただろうか。取材を進める中で振り返ってみた。話題の本や、教育によさそうな本、家に置いておしゃれな本―。どうやら“大人の視点”が入り込んでいたのでは…と反省した。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、絵本や児童書の売り上げが増えているという。入園入学シーズンも控え、子どもに本をプレゼントする機会も多くなるはずだ。その時は、ぜひ一度考えてみてほしい。その本を読むのは誰ですか、と。

© 一般社団法人共同通信社