燕・高津とミカンを握りシンカー談義 潮崎哲也氏が明かす“魔球”と過ごした15年

西武の球団本部編成グループディレクターを務める潮崎哲也氏【写真:宮脇広久】

現在は西武の球団本部編成グループディレクターとしてチームを支える

かつてプロ野球には“魔球”を投げるピッチャーがいた。西武の球団本部編成グループディレクターを務める潮崎哲也氏は現役時代、右のサイドスローで主に中継ぎ投手として活躍。ライオンズ一筋15年で、82勝55敗55セーブ、防御率3.16をマークした。「いったん浮き上がってから約50センチ沈む」といわれた独特の軌道のシンカーは“魔球”と恐れられた。潮崎氏自身にその誕生にまつわる秘話と、自身だけが修得できた理由を明かしてもらった。

好調時にはバットにも触れさせなかった。「自分が野球人生で1番良いシンカーを投げていたのは、ソウル五輪に出場した社会人(松下電器)2年目と、プロ1年目だったと思います。あの2年はイメージ通りの軌道とキレでした」と振り返る。

1988年のソウル五輪では、日本代表の主力投手として銀メダル獲得に貢献。プロ1年目の90年7月5日のオリックス戦では、140キロ台中盤のストレート、110~115キロのシンカーなどを駆使し、8者連続三振の快挙を達成した。「ストレートが走っている時は、腕を速く振れているので、比例してシンカーも回転数が上がり、落差とキレのある球を投げられました」と語る。

徳島・鳴門高3年の春に投げ始めてから引退するまで、シンカーの握りは全く変わらなかった。基本的にフォークボールが人さし指と中指の間にボールを挟んで投げるのに対し、シンカーは中指と薬指の間からボールを抜く。「多くの人は、ここで薬指が邪魔になってしまう」と言う潮崎氏の指の関節は、人並外れて柔らかい。今でも中指と薬指の間は10センチ以上開く。「自分よりここが開く人には、お会いしたことがない」と言うほどだ。「何度か『シンカーを教えてほしい』と頼まれたことがありますが、手を握ってみて固かったら難しい。これは生まれつきで、努力をして開くようになったわけではありません」と説明する。

一方、同い年の親友で日米通算201勝を挙げた野茂英雄氏のようなフォークは投げられなかった。「実は野茂は関節が固くて、指の間はあまり開かないのです。しかし、だからこそグリップ力が強い。僕は、開くけれどグリップ力が弱い」と明かす。フォークを投げるにはグリップ力、シンカーには柔軟性が決め手なのかもしれない。

関節が柔らかく、中指と薬指の間が異常に開く【写真:宮脇広久】

潮崎氏のシンカーを見た野村克也氏が高津臣吾氏に言った「おまえも投げられないか?」

投げ方は、ストレートの場合は掌を捕手方向へ向け、ボールの真後ろを押すのに対し、シンカーは手の甲を上へ向けたまま、ボールを引っ掻くようにして強いスピンをかける。「卓球でドライブをかけるイメージです」と例える。

92年の日本シリーズでは抑えを務め、ヤクルトを下しての日本一に貢献。この時、敵将のヤクルト・野村克也監督は、潮崎氏と同じ右のサイドスローの高津臣吾氏に「おまえも投げられないか?」とシンカー修得を命じた。結果的に高津氏が日米通算313セーブと活躍する上で、これをきっかけに覚えたシンカーは欠かせない武器となった。

「僕と高津では、同じシンカーでも軌道が違っていたと思います」と潮崎氏。「同い年の高津とは、引退する直前まで接点がなかったのですが、ある日、六本木の飲食店で偶然出会って、その場で“シンカー談議”をしました」と満面笑みで振り返る。もちろん店にボールがあるはずがなく、ミカンを握って語り合ったという。

時には“魔球”を苦もなく打ち返す打者にも遭遇した。「当時近鉄の新井宏昌さん(左の巧打者で通算2038安打)など、上下動の少ない、フルスイングしない打者にはよく打たれたイメージがあります。逆に、マン振りする外国人選手には有効でした」と振り返る。

52歳となった潮崎氏は「魔球? 自分ではそんな風には全く感じていませんでしたよ。投げ始めた頃は『ただの遅い球』という感覚で、実戦を経ていくうちに、『あれ? この球、打たれないな』とは思いましたけど」と事もなげ。だが、「僕自身、子供の頃は野球漫画やアニメで、いろいろな魔球を見ていた世代です。『侍ジャイアンツ』の分身魔球(ボールが激しく揺れるため、分身したように見える)とか、こんなのありえないと思いながら楽しんでいました」と語るのと同様に、子供を含む野球ファンたちが潮崎氏のシンカーに胸を躍らせた。

そして、高3の時に覚えたシンカーは、潮崎氏の野球人生を大きく変えた。次回は、魔球誕生の瞬間について語ってもらう。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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