野村監督は「僕の人生を変えてくれた」 “愛弟子”飯田哲也氏が野村ノートを開く時

昨年7月のヤクルトOB戦に出場した飯田哲也氏【写真:荒川祐史】

今年2月に亡くなったヤクルト在籍時の監督、コンバートで開花

ヤクルトなどで活躍し、昨季までソフトバンクの3軍外野守備走塁コーチだった飯田哲也氏の自宅には大切にしまっている4冊のノートがある。ヤクルト黄金期のミーティングで野村克也監督から教わった野球の緻密さ、プレーの選択肢、時には生きるヒントまで書いてある宝物だ。

飯田氏は1986年ドラフト4位で捕手としてヤクルト入り。野村監督のもとで捕手から内野、外野とコンバートされ、1991年に中堅手に定着した。同年から7年連続ゴールデングラブ賞を受賞、1992年に盗塁王とベストナインに輝くなどヤクルトの黄金期を支えた。

「就任当時、『何でアイツが捕手をやっているんだ』と野村監督はコーチに言ったようです。僕の足を見てくれていた。監督の考えでは立ったり、座ったりを繰り返す捕手の足は衰えていく、と。僕はプロに入って、一流の捕手になることしか頭になかった。捕手で成功しなかったら、プロ野球選手じゃなくなると思っていたので、コンバートは考えてもいなかったので驚きました」

飯田氏はID野球の申し子として、事細かく野球を教わった。フライを打てば怒られた。変化球を引っ掛けて内野ゴロを打っても怒鳴られた。守備や走塁のことで怒られたことはない。いつも打撃のことばかり、注意された。

「ある時は『阪神の和田(豊)のバッティングをよく見ておけ』と言われたことがありました。見ているだけじゃわからないので、千葉の高校の先輩(和田氏は我孫子高、飯田氏は拓大紅陵)だったということもあり、直接、聞きに行きましたね」

和田氏は右方向へ打つのが秀逸だった。内角球でもセンターから右方向へ打ち返していた。飯田氏は「内角をどういう意識で、右に打っているのですか?」と聞くと、少し体を開き気味にステップし、ちょっと遠く感じるようにして打つイメージと教わった。

「イメージも感覚もだいぶ変わりました。和田さんは本当に引っ張りませんでしたから」

野村監督の話をする時、僕は『思い出』と言いたくない

そこには野村監督の緻密な野球は細かい目配り、配慮、準備にあったように思える。飯田氏は足も速く、動ける選手。野球脳も長けていたため、ギャンブルスタートやダブルスチールなど「年に1回あるか、ないかのプレー」の練習をよくしていたと言う。とにかく『どうやって点を取るか』『走者が三塁の場合に確実に1点を取る方法」などをミーティングや練習で指示を出され、自分のノートにペンを走らせたことを覚えている。

野球の新たな景色を見せてくれた恩人と、今年、別れの時を迎えた。

「野村監督の話をする時、僕は『思い出』と言いたくないんです。野村さんは僕を変えてくれた人。コンバートで才能を見出してくれた。野球も勉強できましたし、野球に関することを教えていただいた。今でも役に立っています」

ずっと生き続けているから、思い出という言葉に集約したくはない。

飯田氏は現役引退後、指導者になってから、野村監督が言っていたことが身にしみてわかることもある。野村ノートを開く時は、コーチになってからも多い。

「守備の時、例えば、外野に打球が行ったとします。内野がカバーリングをしていない時、ショートはファーストはどこにいればいいのか。自分は頭ではわかっているけれど、どうやって説明すればいいのかと考える時があるんです。そういうことをわかってないで、プロに入ってくる子も多いので、(野村監督が)どのように説明してたかな、と思った時にノートを見ますね」

指導者となってからのミーティングではホワイトボードを使って、「ここにボールが飛んだら、ランナーはこう動く。だから守備は……」と野村ノートを参考に説明をしていることもあった。ノートには他にも投手心理や打者心理も書いており、参考にしている。

現役時はヤクルトの後、楽天で野村監督の下でプレーしたため、ノートは2006年まで付け足されている。約15年たった今の野球にも、必要で大切なことがたくさんある。野村監督が残したものを、後世に伝えていくことも飯田氏の使命なのかもしれない。(Full-Count編集部)

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