【ID野球の原点】巧妙トレード戦略で江本孟紀獲得 移籍1年目から16勝挙げ素質開花

移籍初年度となった1972年に16勝を挙げるなど、南海で素質を開花させた江本。76年に江夏との交換トレードで阪神へ移籍した

【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(9)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)

ブレイザーと野村の指示で相手投手の球種を事前に予測。さらに指示された方向へゴロを転がせば、シフトの逆を突いて簡単にヒットになった。そうやってグングン成績を上げていった南海の選手たちを、野村はトレードの駒としても有効に利用した。

何せそれまでは打率2割5分しか打てなかった選手が、ベンチの指示により2割8分を打てるようになったのだ。以前ではトレード交渉のテーブルにも着いてくれなかった他球団が、逆に南海の選手を「欲しい」と言ってくれるのだから商談は楽に進む。そこで野村は大胆なトレードを積極的に進めていった。

そして南海が獲得していった選手たちは、ブレイザーと野村の頭脳野球を吸収することでさらに成績を上げ、チームにとって大きな戦力となっていった。1971年オフ、東映から江本孟紀を獲得したトレードがその最たる例だろう。

江本は71年にドラフト外で東映に入団。1年目は主に中継ぎとして起用されて26試合に登板したが、0勝4敗で防御率5・02と目立った成績は残していない。しかし、野村は江本の腕の長さに着目。「あの腕のしなりはタダ者じゃない。あれは大化けするかもしれん」とシーズン終盤に対戦した時からその素質に注目していた。

そこでオフになると早速、東映にトレードを申し込んだ。だが、こちらからいきなり江本を指名したのでは「野村がそこまで言うのなら、この選手は見込みがあるのか」と相手に警戒されてしまう。そう考えた野村は、まずエース・高橋直樹を交換相手に指名した。もちろん東映監督の田宮謙次郎がOKするはずはない。そこで野村は徐々にランクを落としていき、最後の最後で「それなら仕方がない。ならば確かヒョロヒョロとしたヤツがいただろう。名前はなんだったか…」。結局、野村は江本の「エ」の字さえ出さないまま、狙い通りに江本の獲得に成功した。

73年のキャンプ直前には巨人とのトレードをまとめ、富田勝を放出して山内新一と松原(福士)明夫を獲得。巨人では芽が出なかった2人は野村のリードで蘇った。今でいう「野村再生工場」の原点はこのあたりにあったと思う。

以来、他球団からは「南海の選手をトレードで獲る際は、野村にダマされないようにしなければ…」という声がよく聞かれるようになった。

江本は移籍1年目から16勝。翌73年には12勝をマークし、山内も初年度からいきなり20勝を挙げた。まんまと戦力の底上げに成功した南海はこの年の前期を制し、後期を制した阪急とのプレーオフに臨むことになった。=敬称略=

☆いちはら みのる 1947年生まれ。千葉県出身。県立千葉東高―早稲田大学教育学部。早大では野球部に入部せず、千葉東高の監督をしながらプロの入団テストを受験し、69年南海入り。70年オフに戦力外通告を受け71年に通訳に転身する。79年に阪神の監督に就任したブレイザー氏に請われ阪神の守備走塁伝達コーチに就任。81年にブレイザー氏とともに南海に復帰すると、89年からは中西太氏の要請を受けて近鉄の渉外担当に。ローズ、トレーバーらの優良助っ人を発掘した。ローズが巨人に移籍した04年に編成部調査担当として巨人入団。05年退団。

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