ユーミンが突き破った見えない壁、1980年の「時のないホテル」と「SURF & SNOW」 1980年 6月21日 松任谷由実のアルバム「時のないホテル」がリリースされた日

__リ・リ・リリッスン・エイティーズ ~ 80年代を聴き返す ~ Vol.14
松任谷由実 / 時のないホテル__

ユーミン・ランキングの結果は?

私が月イチで行っている音聴きイベント『いい音爆音アワー』で先日、ユーミンの中だけでのランキングを決めよう、ということをやりました。ユーミン自身が唄っている曲限定で、好きな曲を3曲以上10曲まで、順位をつけてエントリーしていただくという形。任意でコメントも受けつけました。それを、1位20点、2位19点…… 10位11点という配分で集計し、いいコメントがあった曲には1点を加点して、合計点順にトップ40を選出したのです。

エントリーしてくれたのは約50人と数は多くありませんが、音楽情報サイトやFacebookで広く呼びかけた中での50人ですから、年齢層も19~68歳とかなり幅広く、それなりに多様な声が集まったのではないかと思っています。

具体的な結果を知りたい方はネット検索していただくとして、興味深いのはひとつのアルバムからランクインした曲数。どのアルバムがいちばん多かったと思いますか?2位は二つあって『ひこうき雲』と『COBALT HOUR』がどちらも4曲。

そして、1位はこの『時のないホテル』だったんです。5曲。このアルバムは全9曲なので半分以上がランクインです。ただ最高位が「水の影」の23位で、いずれも上位にはいかなかった。

たまたまだよ、と言われるかもしれませんが、なんだかこれ、このアルバムの特異性を示しているような気がしています。一番ではないが “二推し” くらいの名曲が多いアルバム。広く門戸を開いてはないが、入ると深入りしてしまうアルバム。

松任谷由実として再スタート、アルバム「紅雀」の評判は?

1976年11月、22歳という若さで結婚をし、歌手活動から引退しようと考えていたらしいユーミンですが、77年12月には松任谷姓を名乗って『全国縦断コンサート』をスタートします。準備を考えるとせいぜい1年しか休んでいません。そして78年3月にはアルバム『紅雀』をリリース。しかもなんと、その78年から81年までの4年間は毎年2作ずつアルバムをリリースし、2回ずつの全国コンサートツアーをこなしています。1年に1作&1ツアーでもたいへんだろうに、このペースは驚異的です。まったく引退どころじゃないですね。

なぜこんなにガムシャラにがんばっていたんだろう?“松任谷由実” としての最初のアルバム『紅雀』がやや不評だったので、ちょっと焦ったのだろうか。

“荒井時代” の4アルバムはまさに神がかり的な名曲ばかり、しかも4作目の『14番目の月』でオリコン1位と商業的成功も果たしたところでの、早過ぎる(?)結婚、再スタートということで、いろんな意味で人々の注目度は高かったと思いますが、そこへ『紅雀』。

決して悪くない作品だし、フォルクローレなど民族音楽を導入したりと新鮮味もあったと思うのですが、膨らみきったファンの期待には応えられなかった。チャートは2位と、ふつうなら充分な結果なのですが、“荒井時代”と比べると、盛り下がり感は否めませんでした。

そこで次々とアルバムを創り続けます。『流線形 '80』『OLIVE』は “荒井時代” のテイストに戻し、『悲しいほどお天気』ではAORロック色を強めてみる。それぞれにいい曲もあるのですが、チャートは順に4位、5位、6位と少しずつ下がっていきました。

「時のないホテル」と「SURF&SNOW」の思い切り対照的なテイスト

で、その次のアルバムが『時のないホテル』。ここでユーミンと松任谷正隆氏は、なんと言うか、開き直ったんじゃないかと思います。冒頭の「セシルの週末」に続けて「時のないホテル」と意表をつく世界観の詞曲を並べたことがそう思わせるのです。「そうよ、下着は黒で、煙草は14から…」という歌詞にはギョッとさせられました。それまでのユーミンからは聞いたことがなかった台詞とストーリー。

そしてそれをガッシリと支えるのが正しくロックの作法に則ったサウンドであることが、このアルバムの特異性を際立たせます。キーボード奏者松任谷正隆のアレンジとは思えない、歪んだエレキギターをフィーチュアした堂々たるロックに、ここまで振り切ったユーミンのアルバムはこれ以前も以後も皆無です。「よそゆき顔で」など、いつものユーミンならピアノ中心のソフトなアレンジにするだろうと思う曲ですが、あえてミディアム8ビートのロックにしてしまっている。

それは、それまでのユーミンファンには馴染めなかったかもしれないし、その時点でも既に “古くさい” ものだったかもしれませんが、松任谷正隆ならではのクオリティの高さもあって、ビートルズで音楽にのめり込み、70年代ロックで育った私のような輩には、思わず心がときめいてしまうくらい、充分魅力的でした。

ところが、このロックサウンドにはあっさりとさよなら。前述のように、この1980年も2枚、これと、12月1日に10thアルバム『SURF&SNOW』をリリースしますが、こちらは打って変わってポップでキラキラな世界でした。半年でそんなに変われる? ってくらい対照的なテイストでしたが、「恋人はサンタクロース」の大ヒットを得て、「スキー場でもユーミン」というひとつのブランドを新たに増設することに成功しました。

1980年の2アルバムがその後の快進撃を生んだ

こうして、右と左に思い切り手を伸ばしたことが、それまで閉じ込められていた見えない壁を突き破ることになります。

この後、『水の中のASIAへ』というミニアルバムを挟んで、12thアルバム『昨晩お会いしましょう』(1981)がオリコン1位という “ホームラン” になり、そのまま28thアルバム『Cowgirl Dreamin’』(1997)まで、なんと17作ものオリジナルアルバムが連続で1位を獲得するという快挙を遂げます。松任谷由実はとんでもない “10割パワーヒッター” として、日本ポップス界に君臨していくことになるのです。

1980年の2つのアルバムは、その後の快進撃のための、とても有効な “テイクバック” となりました。その“振り方”を選んだユーミンと松任谷正隆氏の判断はすごいと思います。

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カタリベ: 福岡智彦

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