虎戦士を驚かせた黄金ルーキー・鳥谷の強運「何かを持ってる」

遊撃のポジションを取り戻した鳥谷はポテンシャルの高さを発揮した

【球界平成裏面史 阪神・鳥谷編(3)】指揮官の〝寵愛〟を受けてきた阪神の黄金ルーキー・鳥谷敬内野手は、平成16年(2004年)4月2日の巨人との開幕戦(東京ドーム)に「7番・遊撃」でスタメンに名を連ねた。球団の大卒新人では同じ早大出身で元監督の中村勝広以来、32年ぶりの快挙だった。

前年20勝の井川慶を開幕投手に指名した岡田阪神は第2戦に福原忍、第3戦に下柳剛を立て〝伝統の一戦〟に3連勝と最高のスタートを切った。一方で、3戦連続先発出場の鳥谷は開幕戦で8回に左腕・前田幸長から左前にプロ初安打を放ったが、3試合で12打数2安打6三振だった。

なかなか秘蔵っ子に安打が出ず、岡田彰布監督もイライラを隠せなかった。2三振を喫した第3戦の試合中には金森、平塚両打撃コーチを呼びつけ「(鳥谷の)スタンスが狭くなってるやろ。すぐに気づいて言ってやれや!」と叱りつけた。

宿敵巨人を相手に3連勝した阪神だが、次カードの横浜(現DeNA)戦で2連敗。「7番・遊撃」で出場し続けた鳥谷は5打数無安打2三振と精彩を欠き、3戦目にはスタメンを外された。取って代わったのは前年に初の規定打席到達で打率3割1厘をマークした藤本敦士だった。

鳥谷の出番は激減の一途をたどった。4月14日の広島戦に代打で沢崎から甲子園初安打となる二塁打を放つが、代走や守備固めでもなかなか指名されず、ベンチを温める日々が続く。それでも岡田監督が英才教育を理由に鳥谷の一軍帯同を継続させたことで、口さがない選手たちは「ひいきされている」と愚痴った。

4月中に鳥谷がスタメン復帰することはなく、本拠地での先発デビューも5月14日の広島戦まで待つことになった。さすがの黄金新人も精神的にきつかったに違いない。「ベンチにいても居場所がない。何で一軍にいるのかわからない。下(二軍)で試合に出たい…」と二軍落ちを志願し、しばらく二軍戦にも出場しながら再起を目指した。

ただ、周りはすべて敵だらけ…だったわけでもない。意外にも鳥谷に理解を示していたのは藤本だった。開幕スタメンの座を奪われても「出るからには俺の分まで頑張ってくれ。俺は腐ってないから気にするな。開幕から10試合ぐらいは知らないところで体に張りが出る。ケガに気をつけろ」とエールを送っていた。

鳥谷には選手全員が注目した。出番を失っても腐るどころか、驚異的な練習量をこなす姿勢は共感を呼び「黙々と懸命にやっているし、あいつがうまくいかない分はみんなでカバーする」と好意的な声も自然と増えた。

そしてプロの世界で生きていくには重要な〝ツキ〟が6月下旬に到来する。5月下旬から出番を得ていた三塁にアリアスが復帰。7月上旬にはキンケード、片岡篤史ら内野手に復帰のメドが立った矢先、ライバルの藤本が長嶋茂雄監督率いるアテネ五輪代表に招集されたのだ。岡田監督は「代わりは鳥谷でいく」とし、再び遊撃のポジションが転がり込んできた。

藤本の長嶋ジャパン入りは〝大穴〟に近く、1次候補に名を連ねた今岡が有力だっただけに虎戦士たちも「鳥谷の強運ぶりはすごい。何かを持っている」と言って驚いたほどだった。

1年目の鳥谷は出場101試合で打率2割5分1厘、3本塁打、17打点にとどまったが、アテネ五輪後に藤本が打撃不振に陥ったこともあり、次第にスタメン出場の機会を増やしていった。2年目の平成17年には正遊撃手に定着してリーグVにも貢献。連続試合フルイニング出場記録にも挑戦する「鉄人」への足掛かりを作っていく。

当時の岡田監督の〝寵愛〟ぶりは、今になって考えれば何ら間違っていなかった。決してブレない姿勢は鳥谷の潜在能力を見込んでのもの。久万俊二郎オーナーから発せられた「鳥谷は同じ早大出身の中村、岡田に続く生え抜きの幹部候補生。将来の監督としての期待も背負っている。3年以内にそれなりの結果を出させるように」という事実上の〝監督手形〟も背景にあったと思う。6度のベストナイン、5度のゴールデングラブ賞に通算2000安打。タテジマ時代に数々の金字塔を打ち立てた鳥谷は、今季も元気にロッテでプレーする。(この項おわり)

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