【藤田太陽連載コラム】自責「1」で失点は「7」…でもチームを責めはしません

秋田高の後藤は1996年センバツに出場

【藤田太陽「ライジング・サン」(9)】ついに投手として本格的に始動しました。高校3年生の春です。新3年生となる春先の試合からどんどん投手として投げさせてもらって結局、夏の大会前まで防御率が0・60くらいでした。正確な数字は覚えていませんが、何せ点を取られなかった記憶があります。大会前の新聞なんかには、ダークホース的な扱われ方をしていたのを覚えています。

もともと、2年生で打撃に目覚めて4番を打たせてもらってましたから、投手として投げ始めるとワンマンチームみたいな感じになってしまいました。ただ、やっぱり慣れてない投手を本格的にやりだして、結果も伴って楽しくなる半面でヒジが痛かったですね。

本当の意味でのピッチングフォームというものを知らなかったんです。ヒジがしなって柔らかいという表現で褒められるとうれしいですが、実際はヒジがかなり痛かった。今みたいにトレーニング方法も近代化してませんでしたし、インナーマッスルがどうとか知識がなかった時代です。鉄棒にぶら下がって指の力を鍛えるくらいしかなかった。投球後のアイシングくらいはしてましたけど。

試合の方は僕が投げれば連勝、連勝、連勝です。その前の新チームになってからの秋季県大会では準優勝したんです。春は投げてない試合で負けて、夏の予選はノーシードでした。

当時の秋田県は金足農業、秋田商業、秋田経法大付とあともう1校、進学校の秋田高が有力チームとされていました。秋田高の1学年上にはのちにオリックスや楽天で活躍された、後藤光尊さんが4番で投手。僕らが3年生のころにはもちろんいませんが、後藤さんがスーパースターだったのをすごく覚えてます。その後は同じ川崎製鉄千葉でチームメートとなりお世話になりました。

肝心な甲子園をかけた夏の大会はというと2回戦敗退です。僕が先発して自責1でしたが、失点7でしたかね。延長戦でサヨナラ失策で高校野球は終わりました。チームとして失策は多かったです。でも、当時の自分はそれが嫌だとは思わなかった。そういうのを含めて、僕はこのチームで野球をしようと決めたわけですから。

周囲には新屋高でなければ甲子園に出られたのに、とか言われたりはしました。でも、新屋高で甲子園に出るために自分は選んで入ってきた。みんな一生懸命やってるのは分かってるし「なんでエラーしてんだよ」とは1ミリも思わなかったです。自分自身も完成した投手ではないですしね。人を責めるなら、僕があの場面で三振取れなかったからそうなったんだと、そう考えていました。

僕は高校野球で県大会優勝投手になったこともない。投手をやり始めてまだしばらくの人間が調子に乗って、練習試合でうまくいったからって、そんなに甘いものではない。本大会ではヒジの痛みもあって、ガンッと全力で投げられない苦しい投球でした。でも、そのうまくいかなかった経験が、次に社会人野球に進もうと思えた原動力になりました。

とんとん拍子にうまくいっていたら、そのままプロに行っていたかもしれないですけどね。この高校3年生のシーズンが投手・藤田太陽の元年でした。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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