「なあ、京平。俺は何の病気なんだ」ジャイアント馬場 緊急入院から約1か月半…事態が急変

ハワイを愛していた馬場さん(1985年12月=右は元子夫人)

【ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」(2)】和田氏がハワイ旅行の準備を整え、馬場さんの自宅へ迎えに行こうとした矢先だった。元子さんから「京平、馬場さんは少し熱があるから先に行っててちょうだい」との連絡があった。「もうこれは普通の状況ではないと判断した。すぐ中止にして駆けつけました」と和田氏は明かす。

ハワイ行きが中止になると聞くと、馬場さんは「なにっ」と驚いたという。自身も病状を知らされていないまま、東京医科大病院に緊急入院した。入院後もことあるごとに馬場さんは和田氏に「なあ、京平。俺は何の病気なんだ。どこが悪いんだ」と問いかけてきた。半月後に判明することになるが、この時点で馬場さんは腸閉塞を患っていた。今思えば医師から病名を告げられた元子さんは、最後まで周囲に事実を伏せていたのだ。

病状は特に悪化せず安定したまま年末年始を迎え、99年の1月2日には新春シリーズが後楽園ホールで開幕する。入り口には「ジャイアント馬場欠場のお知らせ」という告知が貼られていた。

団体はそのまま地方巡業に入るが、同8日に馬場さんは腸閉塞の手術を受ける。手術は成功したとされたが、実はこの時点で上行結腸がんは進行していた。しかし、側近にもその事実は知らされないままだった。

シリーズ中に一度帰京した和田氏は途中経過の報告のため、病室を訪れる。その際「ああ、社長は手術したんだなと横たわっている雰囲気で分かった。でも、その時はまだ話せたんですよ。だから俺もそのままシリーズに戻った」という。

そして最終戦の1月22日大阪大会を終えて帰京。シリーズの報告をするため、和田氏は23日、再度病室を訪れる。同大会では三沢光晴と川田利明の3冠ヘビー級王座戦が行われ、川田が新王者となるも試合中に右腕尺骨骨折のため、後日王座を返上する。

23日に和田氏から「社長、無事にシリーズは終わりました。でも、川田が骨折しちゃって」との報告を受けた馬場さんは、ベッドの上で「バカだなあ。何をやっているんだ」と苦笑いで静かに応じたという。そしてこれが馬場さんと和田氏の最後の会話となった。

翌24日から事態が急変したからだ。=続く=(運動二部・平塚雅人)

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