【ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」(2)】和田氏がハワイ旅行の準備を整え、馬場さんの自宅へ迎えに行こうとした矢先だった。元子さんから「京平、馬場さんは少し熱があるから先に行っててちょうだい」との連絡があった。「もうこれは普通の状況ではないと判断した。すぐ中止にして駆けつけました」と和田氏は明かす。
ハワイ行きが中止になると聞くと、馬場さんは「なにっ」と驚いたという。自身も病状を知らされていないまま、東京医科大病院に緊急入院した。入院後もことあるごとに馬場さんは和田氏に「なあ、京平。俺は何の病気なんだ。どこが悪いんだ」と問いかけてきた。半月後に判明することになるが、この時点で馬場さんは腸閉塞を患っていた。今思えば医師から病名を告げられた元子さんは、最後まで周囲に事実を伏せていたのだ。
病状は特に悪化せず安定したまま年末年始を迎え、99年の1月2日には新春シリーズが後楽園ホールで開幕する。入り口には「ジャイアント馬場欠場のお知らせ」という告知が貼られていた。
団体はそのまま地方巡業に入るが、同8日に馬場さんは腸閉塞の手術を受ける。手術は成功したとされたが、実はこの時点で上行結腸がんは進行していた。しかし、側近にもその事実は知らされないままだった。
シリーズ中に一度帰京した和田氏は途中経過の報告のため、病室を訪れる。その際「ああ、社長は手術したんだなと横たわっている雰囲気で分かった。でも、その時はまだ話せたんですよ。だから俺もそのままシリーズに戻った」という。
そして最終戦の1月22日大阪大会を終えて帰京。シリーズの報告をするため、和田氏は23日、再度病室を訪れる。同大会では三沢光晴と川田利明の3冠ヘビー級王座戦が行われ、川田が新王者となるも試合中に右腕尺骨骨折のため、後日王座を返上する。
23日に和田氏から「社長、無事にシリーズは終わりました。でも、川田が骨折しちゃって」との報告を受けた馬場さんは、ベッドの上で「バカだなあ。何をやっているんだ」と苦笑いで静かに応じたという。そしてこれが馬場さんと和田氏の最後の会話となった。
翌24日から事態が急変したからだ。=続く=(運動二部・平塚雅人)