一気に広まった「G馬場死去」の噂 全日事務所に急きょ駆け付けた鶴田、三沢は…

全日事務所で会見する三沢光晴(左)とジャンボ鶴田(1999年2月1日)

【ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」(5)】「ジャイアント馬場さん亡くなる」の噂は一気にマスコミの間を走り抜けた。1999年1月31日深夜からは数人の記者が自宅マンション前の1階で張り込み、仲田氏が玄関前で対応した。2月1日朝、記者はタクシーで自宅前を通過し、人の輪を確認すると「ここではどうにもならない」と判断して六本木の全日本プロレス事務所に向かった。

すでに数社のテレビカメラが道路前に張り込んでいる。主のない社長室に入り、当時の広報担当者と向かい合った。亡くなったのは間違いない。しかし、広報担当者は「何も連絡がないんです」と途方に暮れるのみだった。

午後になると、次々と報道陣が狭い事務所に詰めかける。あっという間に20人以上の記者が社長室の前に陣取っていた。社長室を出ると、関係者と思われたのか、一般紙の記者が「生きているのか、死んだのか。それだけでいいからはっきりさせてくれ!」と何とも失礼な言葉を投げかけ、テープレコーダーを目の前に突きつけてきた。

記者は「すいません。私はご覧の通り、出入りの業者です。路上駐車してるんで、早く行かなきゃ罰金を払わなくてはいけません。お願いだから通してください」と何だかよく分からない言い訳をしてその場を逃れた。タクシーに乗り自宅前に向かう途中、三沢光晴さん(享年46)の携帯に電話を入れた。

「こっちには何も連絡がないな。亡くなってはいないと思うけど…。何か分かったら電話する」

受話器の向こうの三沢さんはまだ落ち着いていた。結局、三沢さん、ジャンボ鶴田さん(享年49)、百田光雄ら当時の幹部に「事務所へ来てくれ」との連絡が入ったのは午後4時になってからだった。事務所に向かう車中で三沢さんからは「会社に呼ばれた。細かいことはまだ分からない。分かったら連絡する」と電話があった。結局、この会話を最後に翌2日まで電話はつながらなくなった。

流れは一気に加速する。午後4時を過ぎた時点で事務所には約100人、自宅前には約50人もの報道陣が押し寄せていた。午後5時には一部テレビ局が「ジャイアント馬場さん亡くなる」の報をテロップで流した。もはや密葬などとは程遠い、日本中を巻き込む大騒動になっていた。

午後6時には報道各社に「午後7時から会見」のリリースが流され、午後7時からは鶴田さん、三沢さん、百田による会見が行われ「馬場さん亡くなる」の事実が正式発表された。三沢さんは知人の飲食店のパーティーに出席しようと家を出た矢先に連絡を受け、事務所に直行した。訃報にはふさわしくない蛍光色のスーツを着て会見に臨んだのはそのためだ。

死去から公表まで実に27時間。空白の時間は、元子さんと身近な「馬場ファミリー」が必死になって静かに故人を送り出そうとした結果だった。

そのころ、遺体を自宅9階まで運んだ若者たちは、横浜市内の合宿所のテレビをぼうぜんと眺めていた。誰もひと言も発さないまま、ニュースの音声だけが広いリビングに響いていた。=続く=(運動二部・平塚雅人)

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