角界から巨人投手に転向した高崎山と多摩川寮友会の宴

【越智正典 ネット裏】大相撲初場所が終わった。巨人多摩川寮友会の男たちは、場所が始まると昔仲間の服部貞夫投手に敬意を表していた。

多摩川寮友会は昭和51年、29年入団の投手堀内庄(松商学園)、27年逗子開成高校から入団の捕手棟居進(平野)が、JR東中野駅のすぐそばの居酒屋でイッパイやったのに始まっている。

29年、秋田船川水産から入団した投手山田幸造(近藤)がよろこんだ。「みんなで集まろう」。世話役を引き受ける。会のナマエは、はじめは「丸子橋大学同窓会」。ご存知のように巨人軍寮は丸子橋のたもとにあった(当時)。が、これだと一橋大学に悪いや…。それなら「多摩川大学同窓会」がいい。みんな進学したかったのだ。しかしこれだと、今度は玉川大学に申し訳ない…と「多摩川寮友会」に落ち着いた。会は回を重ねるたびに出席者が増え盛大になった。

「27年の明石キャンプの初日は吹雪さ。二軍監督の内堀(保、沢村栄治のキャッチャー)さんは凄かったなあー。先頭を走ってボクらを引っぱってくれたなあー」

彼らはだれもが一軍の先輩の話をした。
「隊長(樋笠一夫、31年3月25日後楽園球場での中日戦で代打満塁サヨナラホームラン)は貫禄があるなあー。この前新宿の職場で働いていたら、おお、ご苦労! と、挙手の敬礼をしてくれたよ」

「30年の一軍優勝の神田のサロンでの祝賀に二軍も呼んでもらったなあー。川上(哲治)さんがダンスをしていたのに、びっくりしたあー」

話ははじめに戻ります。服部投手は実は野球が大好きになって大相撲からプロ野球にやって来たのである。大分県出身、鶴崎中学を出ると郷土の先輩、二代目玉乃海、片男波親方に見込まれて入門。29年の正月場所に初土俵。とんとん出世して17歳で幕下。関取は目の前。シコ名は高崎山。部屋に郷土大分の英雄、別府星野組の火の玉投手、毎日オリオンズの荒巻淳が折々にやってくる。荒巻の立ち振る舞いを見てプロ野球に挑戦したくなった。

荒巻に打ち明ける。荒巻が親方の許可をもらって毎日のテストを受けられるようにしてくれた。が、落ちた。話を聞き込んだ巨人が二軍投手で獲った。情熱と足腰の強さを評価した。34年正式に巨人入団。公式戦が始まると、一軍から彼に毎日のようにホームラン賞の副賞のウイスキーがとどけられた。一軍の先輩たちも激励していたのだ。

昭和56年、自由が丘の中華料理の店で開かれた多摩川寮友会で、会友たちは高崎山投手に呆れ、感嘆、感心していた。

16年巨人入団の投手、大先輩多田文久三(高松商業)のとなりに座り「外角低目にいい球を投げるのにはどうしたらいいですか」と、ボールの握り方から習っていた。

もう、もちろん巨人を退いている。ほかの仕事に就いて立派に成功しているのに、まだ、野球をやっていた。幹事棟居が多くの投手の球を受けて来たキャッチャーらしく「きょうもいい会になったあー」 =敬称略=

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