プロ野球選手の正月 それぞれのキャンプ

水原監督(右)と長嶋

【越智正典 ネット裏】巨人監督水原茂は「キャンプはプロ野球選手のお正月」と言っていたが、巨人の明石キャンプの宿「大手旅館」のご主人横山茂雄は第二期黄金時代の猛者たちがやってくる日が近づくと大掃除とお手伝いさんのミーティング。

「選手の方に呼ばれてもびっくりしないで下さいね。おねえさん、おねえさん!と、いっぺんに呼ばれます。呼ばれたらハーイと大きな声で返事をして下さいね。でも、すぐに伺わなくても心配ありません。選手の皆さんは学校から帰って来た小学生がいちばんはじめにおかあさんを探すのによく似ています。返事を聞くだけで安心するんですよ」

水原は昭和44年、中日の監督になるとキャンプを明石に持って行った。キャンプなかば紅白戦。水原は名電工から入団4年目、二軍だった外山博に着目。本球場のとなりの陸上競技場で練習をしている二軍のコーチ、寮長、「中隊長」こと岩本信一に「外山をよこせ」と、使いを出した。岩本は二軍全選手に集合を命じ「只今より外山の壮行会を実施する。気を付け! 外山博バンザーイ」。岩本は帽子を脱いで空に投げた。選手も投げた。帽子がくるくると舞った。

金沢高校、電電北陸、46年中日入団の投手、「ジャンボ」こと堂上照は、中日が串間にキャンプインしたときは呑みに行くのに宮崎のほうが近いのに鹿児島の天文館通りへ。「巨人の連中がモテモテの宮崎に行くもんかッ」。串間からディーゼル線で都城、都城からタクシー、2万円。

55年、串間と日南が近いので毎クール、中日広島二軍が練習試合。のちに星野仙一に抜擢され、星野の参謀役になる、このとき中日二軍の用具係福田功(中央大、全日本捕手)はバスが出発するとき、走って来て見送った。たった一人で「中日第二軍、バンザイ! 勝って来いよ」。

星野仙一。62年、中日の監督(第一次)就任。沖縄キャンプの宿舎、恩納村、ムーンビーチホテルでの激励会に登壇。第一声を放った。

「みんな覚悟しておれ! 試合に出られないヤツは一生懸命ひがめ」

キャンプ第一クールが終わった休日に、招かれて二軍の練習場、具志川での講演会に。セーターとスラックス。

「こんな格好で来ましたのは皆さんと友だちになりたかったのです。背広にネクタイはやめました」

63年10月7日、ナゴヤ球場。対ヤクルト、試合前の打撃練習。グラウンドは整然。ボールがころがっていない。二塁ベース横に一球の瞬間、星野に正遊撃手に抜擢されたPL学園の立浪和義(新人王)がさっとひろった。そういうチームになっていた。この日中日は優勝を決めた。

9回表、星野はストッパー、郭源治に「どうだ、スコアボードが見えるか」。

郭源治はリトルリーグ世界大会の優勝投手。アメリカ、ペンシルベニア州ウィリアムズポートの帰りに日本に寄り、台湾の関係者に東京、上野、御徒町のアメ横で水鉄砲を買ってもらって大よろこびしていた。実は、星野が涙でスコアボードが見えなかったのであろう。 =敬称略=

© 株式会社東京スポーツ新聞社