【藤田太陽連載コラム】手術後のリハビリ中に権田トレーナーと出会う

2003年はスキンヘッドで臨んだシーズンだった

【藤田太陽「ライジング・サン」(20)】2003年当時、球団から何とか許可を取りつけてアメリカでヒジの手術を受けることが決まりました。今では有名になったトミー・ジョン手術です。6月に渡米して、術後はすぐにリハビリが始まりました。

この手術を経ると一般的には1年半で戻れるという実例が残っています。リハビリの進み具合や個人の体質にも影響されますが、そこが目安です。僕の場合であれば04年の12月くらいに復帰できる計算になります。

そうすれば05年シーズンには間に合います。僕の過去の成績の中で04年の数字がないのは、この手術とリハビリ期間のためです。

術後の治療期間、僕はアメリカの施設でリハビリを開始しました。その場所で僕が出会ったのが、権田康徳さんです。現在は阪神タイガースのトレーナーとして活躍されています。

権田さんは当時、僕がリハビリで世話になった米アリゾナ州の施設でインターンとして仕事をされていました。自分の身の回りのことを現地で全部やってくれたのは権田さんでした。スポーツトレーナーとしての知識も豊富で、人間的にも信頼できる。こんな人材は阪神に必要だと本当に思って、球団に権田さんの採用を打診しました。

現地で権田さんが勉強されていた課程を終了して、実際にその後はタイガースの一員となりました。その後、久保田智之(二軍投手コーチ)や複数の選手がアリゾナでトレーニングをするようになり、道筋ができた。

自分で言うのもおかしいので、これまで言ってきませんでしたが、権田さんを紹介できたことでチームの歴史に少し貢献できたかなと思っています。気合だ、気合だと言っていた時代からかなりの変化をもたらしたはずです。

もちろん、過去を否定するつもりはありません。あくまで時代の変化であって、かかわってくださった皆さんが選手のために親身に、懸命にやってくれてきたことは事実ですから。

リハビリ期間から、復帰までの期間は結構、アメリカと日本を行ったり来たりしていました。その期間はプロ野球選手というよりも陸上部員でしたね。あとは外野で球拾いです。左手でボールを拾い上げる。

あまり考えすぎも良くないですし、焦りも出ないように一軍の試合を見ないようにしていました。二軍の試合はバックネット裏でSBOなど手伝いながら、投球のチャートをつけたり、ボールボーイ的な役割をしていました。

僕はよく生活感がないと言われますが、実はもうこのころは結婚していました。手術した03年に結婚したんです。奥さんは野球には全然興味がなくて、そこは救われたかもしれません。術後、リハビリの期間は家で誰かが待っていてくれて、ご飯を作ってくれているような状況でなければ、精神的に持たなかったと思います。

まだ、23歳から24歳になるころです。若かったし、気晴らしに飲みに行くこともよくありました。体のことを考えてくれる奥さんと、それでもめたりすることもありました。その当時は家の中の壁にいっぱい穴が開いていたりしましたよ。

もちろん、奥さんに手を上げるなんてことはないですけどね。掃除機を蹴ってみたりとか、壁に穴開けるとか。やるせない気持ちでお酒を飲んで…。ベロベロに酔っ払って自宅マンション横の側溝に落ちて、顔面血だらけで帰宅とか、そんな日々です。今思えば何やってたんでしょうね。

そして復帰イヤーは05年です。岡田阪神が2年ぶりのリーグ優勝を果たすシーズンです。岡田監督からも期待を受け、僕は復活のマウンドに臨むことになります。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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