<被災者>「生き残って申し訳ない」 笑う瞬間は悲しみ忘れる

町内行事を取材する佐藤さん=南三陸町(宮城県・三陸新報社提供)

 岩手県陸前高田市での被災者支援は2週間で終了。「苦しむ人々に寄り添えたのか」。佐藤守謹(もりちか)(41)は自問しながら被災地を後にした。2014年2月、勤務する南島原市は、陸前高田市と同様に津波で大きな被害が出た宮城県南三陸町と災害応援協定を結んだ。佐藤は南三陸町への職員派遣を志願し続けた。その念願がかなったのは15年4月だった。
 南三陸町は震災で全世帯の6割を超える3321戸が被災。死者数は避難生活での震災関連死を合わせて620人に上り、211人が行方不明になっていた。
 東日本大震災から4年後の15年の春、南三陸町は工事用の車両が目まぐるしく往来していた。海風で土ぼこりが舞っていた。高台に位置する町立中学校を訪ねると、震災前の町並みが映った写真があった。幸せな日々を過ごしていた家族。田んぼや川で遊んでいた子供たち。数々の思い出…。津波が一瞬で飲み込んだ。
 赴任後間もなく、町職員ら43人が犠牲になった旧町防災対策庁舎で生き残った50代の男性職員の話を聞く機会があった。男性によると、女性職員が防災無線で繰り返し「高台へ避難してください」と呼び掛けていた。男性は3階建て庁舎屋上に上がった。「高さ12メートルのここなら大丈夫」と安堵(あんど)したのもつかの間だった。
 約20メートルの巨大津波が屋上に押し寄せた。激流にさらされた。上下も分からなかった。「俺は絶対死なねー」と何度も叫んだ。気づいたら近くの病院に流れ着いていた。体が冷え切っていた。散らばっていた紙おむつをはいたり、祭りの法被を羽織ったりした。
 大勢の同僚が消えた。町を担う30代の中堅職員や20代の若手職員だった。震災後のある会合で遺族が助かった職員らに詰め寄った。「生き残って申し訳ない」。涙がほおを伝った。生き残った職員も苦しんだ。
 赴任1、2年目は町の総合計画の策定に携わった。最初の仕事が防災対策庁舎の遺構化への是非の取りまとめだった。町民の間で賛否が割れた末、震災から20年後の31年まで宮城県が所有、保存することに。悲劇の場所は、震災の教訓を未来に伝える役割を担うことになった。
 配属3年目は広報紙作りに関わった。「笑った時だけ震災のつらい記憶を忘れられる」。飲食店で聞いた店主の言葉が心に響いた。「ふさぎ込んでいる人々に『頑張れ』とは言えない。でも、笑っている瞬間は、悲しみを忘れることができる」。2度あった正月号の表紙に幼児施設を回って撮りためた子ども約200人の笑顔を掲載した。19年3月、南三陸での任期を終えた。「自分ができることはやり遂げた」
(文中敬称略)

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