東京大空襲から76年 火の海の中…4歳の王貞治少年が避難した約1キロの道のり

王貞治さんらが東京大空襲で避難した平井橋(1980年に架け替え)

今月10日で東京大空襲から76年。米軍の大量無差別爆撃で下町一帯が焼け野原と化し、約10万人が命を奪われた。罹災者は100万人と言われる。この惨禍を生き延びた1人が、プロ野球巨人軍で通算868本塁打の世界記録を残した王貞治さん(80=ソフトバンク球団会長)だ。生まれ育った墨田区で昨年から開かれている企画展で、当時4歳の王さんが母親に背負われて逃げた経路が紹介されている。

太平洋戦争末期に相次いだ東京への空襲で、壊滅的な被害を生じさせたのが、3月10日未明ごろに始まった下町じゅうたん爆撃だった。1954年に刊行された「都政十年史」に「隅田川をはさんだ下町一帯は全く火の海と化し…」と記録されている惨禍で、防火や避難に必死な人々の中に王さんの一家もいた。

向島区吾嬬町(現墨田区)で両親が中華料理店を営んでいた王さんは、母親に背負われて逃げたことを著書などで明かしている。父と兄は防火作業のため自宅兼店舗付近に残り、母は王さんと姉を連れて逃げた。もう1人いた姉は疎開中。空襲自体については、空が赤々としていたことが記憶にあるという。

一緒に逃げた姉の証言を基に、王さんの避難経路を初めて公開したのが「すみだ郷土文化資料館」で開かれている企画展「東京大空襲―被害の詳細と痕跡」(5月9日まで)。展示の一環として避難した人々の経路が示されており、王さんの避難経路も見られる。

経路図に町名や通りの名は示されていないが、区内東部からおおむね南下し、さらに東に向かって旧中川の付近で終わっている。「平井橋のたもとだと思います」と語るのは、同館学芸員の石橋星志氏。橋を渡ると江戸川区の平井になる。

「奥まで(橋を)渡っておらず、川にも入らなかったと。川で亡くなっている方を見たりしているということだったので、橋の手前までと判断した」

家屋は焼失したものの、一家は無事だった。

王さんの姉から当時の店舗写真を寄贈されたことを機に、空襲の聞き取りを行った。後日、内容の一部を修正する手紙も届いた。「体験したことを正しく伝えてほしいという気持ちがあると感じた」(石橋氏)

旧中川には猛火を逃れようと多くの人が入り、3000人が犠牲になったとされる。

本紙記者が、王さんの「命の道のり」を実際に歩くと、歩行距離1キロ半あまり、約20分かかった。火の海状態の中、息子を背負って娘の手を引いた母・登美さんの避難は想像を絶する過酷なものだったに違いない。

戦火を生き延びた王さんは1957年、早稲田実業でエース兼四番打者として春の甲子園を制した。地元にとって戦後復興の象徴となる快挙。野球に限らず「王さんのような可能性を持った人が、亡くなった方の中にもたくさんいたのでは」と石橋氏は犠牲者をしのんだ。

【王さんと〝ご近所さん〟だった半藤一利さんの記憶】1月に死去した昭和史の大家・半藤一利さんは王さんと同じ吾嬬町に住んでいた。半藤さんは10歳年上。著書「隅田川の向う側」で、相撲が強い王少年の相手をし、後の大打者の「あの足腰はオレが鍛えてやったと、心ひそかに自負した」と回顧している。別の著書によると、大空襲で平井橋へ逃げ、人波にのまれて橋の中央付近で立ち往生した末、船に救われた。空襲の現場を「地獄の劫火」「阿鼻叫喚」と伝えた。

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