戦友奪った震災から10年「“まだ”でも“もう”でもない」 由規が寄せた2600文字【#あれから私は】

独自手記を寄せたBC埼玉武蔵・由規(画像はスクリーンショット)

被災地への思い「一生背負っていく」…独自手記の連載第1回

また、あの日を迎える。2011年3月11日の東日本大震災から10年。それでも、由規投手の思いは変わらない。高校時代まで仙台市で過ごし、昨季までの2年間は楽天に在籍。東北は、いつまでも特別な場所としてあり続ける。今季からは、独立リーグのルートインBCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズでプレーする。現役続行の決断や、目指す先……。被災地にとっても、自らの野球人生でも、ひとつの節目を迎える2021年。慎重に言葉を選びながら、Full-Countに寄せた独自手記を随時連載していく。【構成 / 新保友映】

毎年「3・11」という日付が近づくにつれて、何年か、何年かと数えてきました。10年というのはひとつの区切り……なのかな。僕も家族が被災したと言えば被災したわけなので、簡単な言葉では片付けられない部分もあります。

自分の感覚では“まだ10年”とか“もう10年”とかでも片付けられない。そんな言葉で片付けてしまえば、すぐに風化していってしまう。被災した人からすれば、“もう”でも“まだ”でもないと思うんです。一生背負っていかなきゃいけない、と言うと深刻なんですけど……。いろんな考え方の人がいて、あえて深刻に考えすぎないようにしている人もいる。だからデリケートな事ですし、慎重にならないといけない。

2月13日の深夜にまた東北で大きな地震があった時、一瞬フラッシュバックした部分もありました。無意識に震えていて、すぐに親に電話をしました。でも、月日がたってひとつ言えるのは、あの経験があったからこそ、今、いろんな対策を練って、みんな、命が一番大事だと思って行動していると思います。

自分の中で被災地に対して何もできていないというもどかしさも正直あるんですけど、「じゃあ、何ができるのか」と言うと、パッと思い浮かばない部分があるのも正直なところで……。ただ、被災した人たちが、悪い部分ばかりを思い出すのではなく、少しでも楽しかったころを思い出してもらえるような……。それが僕らができる事なのかなと。野球を観て感動をもらってくれる人もいるだろうし、勇気をもらってくれる人もいるだろうし。僕がこうやって野球を続けることで、何か発信できるんじゃないかなっていうのは、自分の中で思っています。

僕が活躍したところで大したことはないと思うんですけど、少なくとも宮城県で生まれて、仙台市で育ち、小さいころからずっと野球を続けてきた。少なからず見てくれている人はいますし、野球を続けることで応援したいと思ってくれる人もいる。それがひとつのモチベーションになっているのは確かなんです。

僕自身、高校時代にバッテリーを組んでいた先輩が震災で亡くなりました。その先輩の親御さんとは今でも頻繁に連絡をとっていて、今回も野球を続けるっていう報告をした時には喜んでくださいました。自分の息子のようにすごく気にかけてもらって、まだまだ野球を通じて楽しみを持ってもらえたらなと思っています。どこにいようと野球を続けることで発信できることはある。まあ、「あんな選手いたな」くらいでいいんで。頭の片隅にやっているんだなってことが、様々な人に伝わればいいかなと思うんです。

目の当たりにした被災地の惨状「やっていていいのかな、野球を」

震災の日のことは、今でもよく覚えています。横浜スタジアムでのオープン戦で、登板機会はなかったのでベンチ裏で待機していました。携帯電話は繋がらなかったので、確か球場にある固定電話で何回かかけて、やっと繋がって。その時間はすごく怖かった。

オープン戦は中止になって、ヤクルトの選手寮がある戸田(埼玉)に、先輩の増渕竜義さんの車に乗せてもらって一緒に向かったんですけど、8~9時間くらいかかりました。最初は大きな地震が来たという情報だけだったけど、次第に状況が分かった時に初めて「やばい」って感じたんです。

心理状況も落ち着かない中で練習試合が始まり、集中できていなかった。当時はまだ21歳で、今思うとまだ「野球が仕事」っていう感覚がありませんでした。今だったらその感覚はあるんですが、当時は「やっていていいのかな、野球を」という感覚でした。

気がつけばどんどん日が過ぎ、開幕を迎えていました。予定されていた開幕戦とは場所も相手も違いました。4月に2、3試合投げ、やっと集中できるようにはなりましたが、実家に帰れるような状況でもなくて。交流戦で仙台で投げた時にようやく帰ることができて、被災地の状況を初めて目の前で見て衝撃を受けました。その時も「野球やっている場合じゃないよな」っていう思いは正直ありました。それでも、僕らはやらなければいけない。待っていてくれる人もいる。仙台育英の先輩のご遺族も見に来てくれていました。そこで初めて僕らの使命というか、野球をやんなきゃいけない、いいプレーを見せなきゃいけないと思いました。

その年は5月までに5勝を挙げ、仙台開催のオールスターにもファン投票1位で選んでいただきました。すごくありがたかったんですが、オールスター前に怪我をしてしまった。でも、1位で選ばれているし、何とか出たい。言ってみれば強行で出場し、故障からの復帰戦でした。今でも忘れられないオールスターです。

分岐点となった故障からも10年「重ね合わせてはいけない」

震災から10年。故障してからも10年。そこを聞かれることも多いですが、重ね合わせて発信するというのは、いけないという思いがあります。でも、野球人として現役を続けていられているのは、普通で考えたらあり得ない。野球が好きだという根本は変わらなくて、歳を重ねれば重ねるほど、好きになっていっているのは事実。好きだけではやっていけないけど、好きじゃないとやっていけない。昨シーズンで戦力外になってトライアウトを受けたのも、どこかで踏ん切りをつけなくちゃいけないというひとつの指標のようなものでした。

僕自身は苦しいことの方が多かった。ましてや実働で考えても、実際投げている時間にしても、リハビリしてる期間の方が長かった。それでもやってこられたのは、苦しい以上にうれしいことが待ってたからだと思うんです。ヤクルトの時の復帰戦もそう。楽天の時の復帰戦だってそう。苦しさ以上に、喜びが勝った。それは怪我をした人にしか感じられないものでした。

この10年。何度も言いますが、“もう”でも“まだ”でもない。ただ、何も感じずに過ぎ去っていくというのは違うと思う。震災の記憶や経験、思いを伝えていくのが僕たちの使命だとも思っています。もちろん遺族の方の思いもあるし、どこまで話していいのかというのもある。話すことで「果たして遺族の方は喜んでくれるのか」ということもすごく考えました。それでも、被災したみなさんは僕が野球をやっていることをすごく楽しみにしてくれているんです。

良くも悪くも影響力はあるので、だからこそ、発信していかなきゃいけない。田中将大さんが楽天に戻ってきたのも、何かの縁やつながりなのかな。野球人気を高めるきっかけになるのはもちろんですが、野球を通して子どもたちに震災のことを少しでも知ってもらえるかもしれない。いつ何がおきるかわからない日本で、改めて今こそ大切なことなんじゃないかと思っています。

埼玉武蔵ヒートベアーズ 佐藤由規(新保友映 / Tomoe Shimbo)

© 株式会社Creative2