迫る津波…生死分けた“咄嗟の右折” 柴田高の元主将、甲子園初出場の弟に託す夢【#あれから私は】

グラウンドで撮影した兄弟(左が航汰さん、右が隼翔選手)【写真:高橋昌江】

横山航汰さんは弟・隼翔ら後輩の快挙に「僕らも嬉しい」

19日に開幕する第93回選抜高校野球大会に、1986年開校の柴田(宮城)が春夏通じて初出場する。学校のキャッチフレーズである「夢実現」を叶えた選手たち。コロナ禍で最後の夏に甲子園という夢を追えなかった今年度の3年生世代で主将を務めた横山航汰さんは「苦しい中で結果を出したことはすごい」と喜ぶ。今月1日に同校を卒業した航汰さんは宮城県石巻市出身。小学2年時に東日本大震災による津波を経験したことから、「消防士になる」という“夢実現”に向かう。

「一緒に野球をやってきたメンバーが甲子園に行くというのは僕らも嬉しい。収束が見込めないコロナや10年前の東日本大震災など、苦しい中で結果を出したことはすごい。甲子園でも頑張ってほしいですね」

前チームで主将を務めた横山航汰さんは、春夏通じて甲子園初出場を決めた後輩たちを素直に称える。その中には1つ違いの弟もいる。三塁手の横山隼翔(はやと)だ。

「弟の方がセンスがありますけど、まだまだ足りないなと思うところはありますよ」と、兄としてのプライドをのぞかせながら笑う。航汰さんが遊撃でノックを受けている時、右隣にいた弟。「他の選手よりもきつく言っちゃうこともありました」。宮城県石巻市で生まれ育った2人は“奇跡のグラブ”と野球を始め、ずっと一緒に続けてきた。

宮城・石巻市で被災、小学生3人の兄弟は跨道橋で一夜を過ごした

2011年3月11日。午後2時46分、三陸沖を震源とする巨大地震が発生した。この時、航汰さんは大街道小2年で隼翔は小1。姉は5年生だった。体育館で家族の迎えを待っていたが、父は単身赴任中。母は介護で石巻市内にある祖父宅を訪れていた。横山家の事情を知る、向かいに住む友人の母親が3人を引き取った。家の中はめちゃくちゃで余震も続いている。停電で信号は止まり、自宅前の大通りに抜ける道は車が渋滞していた。3人で外にいると、「逃げろー!」と聞こえてきた。

自宅は石巻工業港から直線で約1キロ。声の方向を見ると、住宅の間を縫って近づいてくる真っ黒な水が見えた。訳もわからず、航汰さんは海とは反対方向へ一目散に走った。姉は隼翔の手を引いて、航汰さんの後ろをついていった。140メートルほどで国道398号線に出ると、咄嗟に右へ曲がった。それを見た姉も弟と一緒に右へ。600メートルほど走った先に、日本製紙石巻工場に続く線路があり、跨道橋があった。そこから大人たちが「登ってこーい!」と叫んでいる。手を借りながら3人は4メートル以上ある、のり面を駆け上がった。航汰さんは「向かうところなんてなくて、たまたま、本当にたまたま右に曲がったんです」と不思議そうに話す。

水の威力は凄まじい。地面から30センチほどに達すれば、大人は歩行が困難になる。ましてや小学生。間一髪で助かったとはいえ、目の前で水かさは増していく。「車とかいろんな物が流されていく。これ以上、水が上がってきたらやばいなと思った。でも、そこにいるという選択肢しかありませんでした」。2キロほど離れている門脇小では火災が発生し、「石巻が燃えるぞ……」という大人の会話が聞こえてきたことを覚えている。一晩をその場で過ごした。「大人が焚き火をしてくれて。暖かかったですね。寒かったですけど、あの火は暖かかったです」。温もりが忘れられない。

翌日、3人は周囲の動きに合わせて自宅に戻る決意をする。大通りはなんとか歩けたが、住宅街は水が引いておらず、ずぶ濡れになりながら自宅に辿り着いた。「もっと水位があったら、泳いで帰ったかも」。悲惨な光景も目にしながら到着した自宅は1階の天井ギリギリまで浸水。2階で服を着替え、布団にくるまった。食事はない。フィルムを剥がし、蓋を開けたカップ麺をそのままかじった。かやくのコーンもそのまま口に入れた。「ところどころは覚えていますが、記憶がないところもあります」。両親とはもう会えないだろうと思った。生きているのかさえ、分からない。一家5人が再会できた時は「安心感がありました」。

兄は震災経験を経て消防士を目指すことを決意

2011年3月11日は金曜日だった。航汰さんと隼翔は、翌12日から少年野球チーム「大街道キッズ」で本格的に野球を始めることになっていた。それどころではなくなったが、「野球をやりたいという気持ちは大きかったですね」と回想する。そして、「これ、すごい話なんですけど」と切り出した。

「家の1階にあったのに、野球道具、残っていたんですよ。土日の練習に行くためソファのところに準備していたんです。実際、津波が来た時に家の中で何があったかは分からないですよ。でも、バッグが浮いたためか中のグラブが無事だったんです。2つとも。なので、震災前に買ったグラブを使っていました」

神様がいるのなら「君たちは野球をやるんだ」と伝えたかったのかもしれない。10年後、弟は甲子園の土を踏むことになるのだから――。

航汰さんは門脇中(今年度で閉校)でも野球を続け、県選抜入りを果たした。同級生の野球部員は小学生の頃から2人だけ。連合チームも経験した。顧問の教諭や連合チームの仲間、保護者、指導者らのお陰で「野球をやり切ることができた」と感謝する。高校は、父・隆弘さんの母校である柴田を選んだ。隆弘さんはロッテの小坂誠育成守備・走塁コーチと同級生で一緒にプレーしている。石巻市と柴田町は約60キロ離れているが、隆弘さんが柴田町の隣の岩沼市にある日本製紙岩沼工場に勤務しており、社宅住まい。通学や生活に適してもいた。中学3年時には春季県大会で柴田の試合を観戦。サヨナラホームランで柴田が勝った。この時、心を決めたという。

2013年夏の宮城大会で準優勝するなど、県内の公立強豪校で甲子園に挑み続けた高校野球。最後の1年は新型コロナウイルスに翻弄された。休校期間中、弟とキャッチボールしながらも、ぽっかりできた時間で将来を考えた。就職か、進学か、野球はどうしようか。考えを巡らせる中で、「野球は高校で一区切りをつけ、2年生くらいから考えていた公務員を目指そう」と決断した。

「18年の人生で、いろんな経験をさせてもらいました。中でも東日本大震災は自分の中で一番の体験。あの時、僕たちをいろんな方が助けてくれましたが、中でも自衛隊員や警察官など、多くの公務員の方々の力は大きかった。自分も震災を経験した人間として、今後、何かあった時に一人でも多くの人の命を救えるような仕事に就きたいと思いました。周りから求められる、必要とされる人間になりたい。今は消防士になりたいと思っています」

大舞台で「思い切りプレーしている元気な姿を見せたい」

昨夏の宮城県独自大会では主将としてチームをまとめ、「みんなで一日でも長く、野球をやろう」と勝ち進んだ。「先輩方が2年連続でベスト4。かっこいいなと思って見ていましたし、周囲の盛り上がりも感じていました」。自分たちも――。しかし、仙台育英との準々決勝は3-4で惜敗。県8強で航汰さんは柴田のユニホームを脱いだ。

「野球は僕らを様々なことから救ってくれました。今、考えれば、震災後は野球ができる環境ではありませんでしたが、それでも始めることができ、続けることができた。僕は野球がなかったら、震災を乗り越えられたか分かりません」

石巻市では関連死も含め、3900人以上が震災の犠牲になった。全半壊した建物は3万3000棟以上にのぼる。プレーできたことはもちろん、小坂コーチをはじめとするたくさんの人から支援があったこと、西武を退団して“浪人中”だった工藤公康さん(ソフトバンク監督)が石巻を訪れた時に打撃投手を務めてくれたこと、2012年に地元の石巻工が21世紀枠で選抜大会に出場したこと……。野球があったから、前を向いて進んで来られたと感じている。

学校のキャッチフレーズは「夢実現」。昨秋、弟の隼翔ら後輩たちは宮城県3位で出場した東北大会で各県の優勝校をなぎ倒し、準優勝。1986年の開校以来、春夏通じて初めての甲子園出場をたぐり寄せ、高校球児の夢を実現させた。

隼翔は「避難している時、お兄ちゃんが右ではなく、左に行っていたら多分、津波に飲まれていたかもしれません」と打ち明ける。命を噛み締めながら立つ大舞台に向け、「お父さんとお兄ちゃんの分も夢を実現できた。石巻で生まれ育ったので、石巻、宮城県の方々に思いきりプレーしている元気な姿を見せたいと思います」と意気込む。

航汰さんは4月から仙台市内の専門学校に通い、野球に注いできたエネルギーを消防士になるための勉強に注ぐ。次は自分が夢を実現させる番だ。あの時、右に曲がって走った判断力を活かす時に向かって――。

【画像】津波から逃げ、一晩過ごした跨道橋の現場写真

【画像】津波から逃げ、一晩過ごした跨道橋の現場写真 signature

(高橋昌江 / Masae Takahashi)

© 株式会社Creative2