「おりがみ」で思い出す世界の巨人〝ジャイアンツ馬場〟の青春

巨人時代の馬場さん

【越智正典 ネット裏】ひょいとテレビをつけたらBSテレビ東京の「孤独のグルメ」が始まろうとしていた。「新丸子」が映った。渋谷から東急東横線で行くと「多摩川」の次の駅の町である。

原作久住昌之、主演松重豊のこのドラマは、店と町は撮影のためのセットではない。

東口に出ると、いまはマンションになっているが、往時の「巨人軍多摩川寮」。昭和30年、新潟県三条実業から入団した馬場正平投手、“ジャイアンツ馬場”は淋しくなると新丸子の下の河原で<海は荒海、むこうは佐渡よ>と、歌っていた。

月二回の分割給料日に給料をもらうと練習が終わった夕方、多摩川寮の裏の「松の湯」で少しのんびりしてから銭湯の隣のそばやの暖簾をくぐっていた。

「オバサーン、アンミツ二ッゥ!」

「あいよー」

彼女は心得ていてドンブリで、二ハイ出した。

昭和34年秋、整理になった。ねじれ球がいけそうだったが、マウンドの投手守備がイマイチだった。馬場が一軍に引き上げられて投げることが出来たのは入団3年目の32年である。馬場が練習が終わった夕方や、練習休みの日に、画を描くようになったのはこのころである。寮生活にも慣れ、少しゆとりも出来たのであろうか。

一軍登板成績は3試合、先発1、0勝1敗、投球回7、打者26、安打5、四球0、三振3、自責点1。二軍捕手山崎弘美が別れを惜しんだ。山崎がいまの渋谷スクランブル交差点の角にあった大きな靴店に頼み込んで木型から特注で馬場のスパイクを作ってもらったのだ。

35年春、馬場は第二次明石キャンプで大洋のテストを受けた。テスト生は風呂もしまい風呂。床に石鹸を使ったあとがたまっていて滑ってころんだ。2メートル、90キロ。倒れたときガラス戸にぶつかり破片が突き刺さった。38針も縫う大ケガだった。

「救急車のサイレンが鳴ったのには驚きました。明石では滅多にないことです」

巨人の明石キャンプの宿「大手旅館」のご主人、横山茂雄さんは話す。

「翌日、大洋の宿、錦明館に新潟から馬場さんのおかあさんが杖をついてお見えになって『ご厄介をおかけしました』と、玄関の床にオデコがつきそうになるほど、お辞儀をなさっていました」。馬場がプロレスラーになるのはこの事故からである。のちに馬場は横山さんに告げている。

「ニューヨークに連れていかれ、女のひとのキモノを着せられて高下駄でフィフスアベニューを歩かされました。悲しくて涙が出ました。涙が落ちて来ないように空を見て歩きました」

馬場は全日本プロレスの社長になる。リングの帰りには現、東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急のレストラン「ORIGAMI」に寄って冷たい紅茶を飲んでひと休みしていた。首相の動静を伝える記事によると菅義偉首相がときどき「おりがみ」に来るという。

そのたびに、馬場のマウンドを思い出している。 =敬称略=

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